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今は遠き夏の日々 ~学校七不思議編 その十一~

 夕暮れ音楽室の噂。

「さて、またここに戻ったけど、どうする?」
 来た道を引き返し、ようやく階段までやってくると、小夜子は振り返って二人を見た。
「とりあえず、四階から離れよう。あの門は危なすぎる。あたしらじゃ手におえないよ」
 と、夕美が言った。小夜子としては、あの門を調べてみたいという気持ちもある。しかし、夕美の顔が今まで見たことがないほどに青ざめているため、今は彼女の言う通りにしておこうと考えていた。
 それにしても、まさか本物の幽霊をこの目で見る日がこようとは。と、小夜子は鎧や軍服の男や、首を切った男子生徒、そして、浪人風の剣士のことを思いだした。
 浪人。自分のご先祖様。小夜子は幾度となく自分の血を呪ってきたが、この日、初めて一条の人間であることに感謝した。
 ともかくとして、三人は一つ下の階に降りた。
「ありゃ? ここ、三階だ」
 正面に見える部室から、現在位置を確認した小夜子は、声を上げて驚いた。
「もしかして、もう一つ下に降りたら二階に行けるんじゃないですかね?」
「いや、余計なことしない方がいいよ。万が一、四階にいっちゃって、しかも出られなくなったりでもしたら最悪だ。このまま渡り廊下を目指そう」
 そういうものなのだろうか。
 ふむ、と小夜子は腕を組んで考えた。
 空間が歪み、本来の場所とは違うところに出てしまうというこの現象。しっかりと調べれば、その原因や、法則、からくりを見つけられるのではないだろうか。
 ええと、第一校舎の四階から三つ下に行くと三階に戻って、渡り廊下を通ると第二校舎三階の図書室に出て、図書室から出た後、一つ下に行くと四階に出て……。
 ……ん? さっぱりわからない。
 三階の廊下を進みながら、冷たい空気によって体が冷え切っていることも忘れ、小夜子は次第にこの現象を調査してみたい衝動に駆られ始めたのだが、
「よけーなこと考えんなよな」
 夕美に布をかぶせられ、思考を止められてしまった。
「あれ? どうしたの?」
「いや、寒そうにしてるから」
 夕美がかぶせてきた布は、彼女が羽織っていた緑のパーカーであった。それも、まだ夕美の体温が残っており、ほんのり暖かいのである。
「あ、ありがと……」
 普段、小夜子も含めて誰にでも冷たい夕美が、珍しく優しい、と小夜子は驚いた。そういう場合は大抵、小夜子の身に何かがあった時である。例えば中学二年の頃、小夜子は飼っていた柴犬が老死してひどく落ち込んでいた時期があったのだが、立ち直るまでの間、夕美はずいぶんと心配してくれていたものである。
「ほれ、渡り廊下見えてきたぞ」
 と、小夜子は肘でつつかれた。そして先を見てみると、三人はようやく、校舎の端、階段の隣にある渡り廊下の目の前までやってきていたのであった。
 小夜子は、渡り廊下のドアを開けた。
 この渡り廊下からは、両側の窓から校舎と中庭を見渡せるつくりになっているのだが、夜だからと言う理由では説明しきれないほどに、外は暗かった。いや、暗い、と言うよりも、暗幕がかかっているかのように黒く、何も見えないのである。
 そうして通路を渡りきり、第一校舎に移動した時である。
「……ん? なにか聞こえない?」
 どこからか、ピアノの音が聞こえてきた。
 音は小さくはあるが、はっきりと聞こえている。
 その音が聞こえる方を向いたとき、小夜子は闇の中にぼんやりとした明かりがあることに気がついた。よく見ると、それは音楽室の扉についている小窓であり、そこから橙色の淡い光が漏れ出ているのである。
「音楽室からピアノの音? 音楽室は防音がしっかりしてるんじゃなかったんですか?」
「揚げ足取んじゃねえ。アタシに聞くなよ」
 小夜子の後ろで、夕美と香苗がそのようなことを言っていたのだが、小夜子の耳にはまるで入っていなかった。代わりに、彼女の脳内はピアノが奏でる旋律で一杯になっていた。
 そして、小夜子はピアノの音色に誘われるように、ふらあ、と音楽室へと向かった。
「あっ! 小夜子! 何してんだ!」
 いつから意識が飛んでいたのか、言われて小夜子は我に返ったのだが、すでに音楽室の扉を開けてしまっていた。同時に、中の光景を目の当たりにして、小夜子は息を飲んだ。
 音楽室の中は、窓から差し込む美しい夕焼けによって、紅葉色や、橙色や、山吹色などの、鮮やかに色彩に染められていたのである。
 しかし、小夜子が声を失ったのは、その幻想的な世界ではなかった。部屋の中をやさしく包み込む、丁寧で、なめらかなピアノの演奏に、心を奪われていたのである。というのも、その音色を聴いていると、母親の胸の中で眠りについてしまいそうなる赤子のような、何とも穏やかな気持になってくるのである。
「なんだっけ……。ええと、ドビュッシーの……、アラベスク第一番……だったかな?」
 流れている曲は知っているのだが、これほどまでにゆるやかに演奏されているのを聴くのは初めてであった。それほどまでに、温かみのある音だったのである。
 ふと、小夜子は夕美と香苗も部屋に入ってきていることに気がついた。
「牧原さん……。あれ……」
「さっちゃんだってば」
 言いながら、小夜子は香苗の指が差す方を見た。
 それは、音楽室に置かれてあるグランドピアノの方なのであるが、音楽に聞きほれていた小夜子は、ようやくこの部屋の一番の異常に気がついた。
 ピアノの前には、誰も座っていなかった。
 つまり、ひとりでに鍵盤が動き、音楽を奏でているのである。
 ピアノが勝手に動くなんて、一体、どうなっているのだろうか。小夜子は興味深そうに奏者のいないピアノを眺めていた。そして、あることを試してみたいと考えた。
「アラベスクもいいけど、モーツァルトのきらきら星変奏曲なんかも聞いてみたいなー!」
 小夜子はわざと大きめの声でそういった。
「え? お前、何言ってんだよ」
「いいからいいから」
 すると、演奏がぴたりと止まった。
「すごい困った顔してるぜ」
「見えるの?」
「むしろ、お前ら今みえてないの?」
 と、不思議そうにしている夕美の顔を見た瞬間であった。
 再び、ピアノがひとりでに動き始めたのである。しかも、曲はモーツァルトのきらきら星変奏曲。出だしは聞きなれた可愛らしいメロディではあるが、しばらくすると、一変、可愛げのあるメロディを残しつつも、非常に高度なテクニックを要する難曲になった。
 それを、そこにいるであろう人物は、難なく弾いているのである。
「きらきら星ってこんな曲だったんですか?」
「そうそう。ちょー難しい曲だよ」
「てかさ。小夜子。お前は一体、何がしたかったんだよ。幽霊に聴きたい曲をリクエストするようなヤツ、あたしは初めて見たぞ」
「いやあ、リクエストできたら面白いなあ、なあんて思っちゃって」
 笑いながら言うと、小夜子は夕美にため息をつかれてしまった。
「もういいからさ。さっさと行こう」
「あ、ちょっと待ってください」
 じーこ、じーこ。
 ……かしゃ。
 香苗がフラッシュをたいて写真を撮ったのである。
 すると、演奏がぴたりと止んでしまった。
「ああ……。消えた……」
 せかしたわりに、夕美が残念そうに呟いた。
「消えたって、誰が?」
「ほら、あの心霊写真に写ってたピアニストの」
「ですよねえ……。他に思い当たる人もいないですし」
「それにしても、さすがな演奏だったね。夕美ちゃん」
 言いながら、小夜子は夕美の方を見た。と同時に、夕美が何か、難しい表情をしていることに気がついた。
「……どうしたの?」
「いや……」
 それから、夕美は顔を上げ、真剣な表情で香苗を見た。
「……あのさ、さっきのピアニストって、どうして音楽室にいると思う?」
「え? そうですねえ……。聞いた話だと、大事なコンクールを目前にして交通事故にあったそうですし……。未練が残ってるんじゃないかと?」
 と、手帳をポケットから取り出した香苗が答えた。
「わたしたちも調べたけど、本当にそうらしいし。……それが、どうかしたの?」
「いやさ。じゃあなんであの人は、事故現場でもなく、この音楽室にいるんだろうなって思ってさ」
「そう言われてみると、確かにおかしいような気もするけど……。とりあえず、音楽室にはもう用もないし、でも、リラックスできたし。早いとこ美術室に行こうよ」
「寄り道したお前が言うなよな」
 
 音楽室から廊下に出ると、ピアノの音はすっかり聞こえなくなったが、しかし小窓から漏れる夕日は変わらずそこにあった。その明かりを背に受けながら、小夜子たちは階段に向かい、一つ下の階に下りて行った。
「わお! ゆっちゃん、美術室だ! やっと来たよ!」
 ずいぶんと遠回りしたが、ようやく美術室の前まで到着した。扉を開けて中に入ると、小夜子は思わず、懐かしいという感情すら覚えてしまっていた。
 とはいえ、懐中電灯が動かない今、暗闇の中で目的の絵を見つけるのは難しい。
「神社の絵って、どれでしたっけ?」
「こう暗いとほんとに何も見えないな」
「一番左の絵から数えて四枚目のでしょ? ちょっと待って」
 明かりの点かない懐中電灯を香苗に渡すと、小夜子は台の上に乗った。そして、いくつもかけられてある絵の中から、神社が描かれてある絵を外した。
 そうして台の上から降りた小夜子は、二人の前で神社の絵を裏返した。すると、やはりそこには護符が貼られていなかった。
「やっぱ、小夜子が持ってたのがついてきたってことか……? だけど、ううむ。解せない」
「何が?」
 腕を組み、あごに手を当てる夕美を見て、小夜子はきいた。
「いや、別に」
 だが、夕美は短くそう答えただけで、特にそれ以上、何も言わなかった。
「それじゃあ、お札、戻すよ? 二人とも、ちゃんと見ててね」
 言って、小夜子はポケットから、夜子神社御護符と書かれたお札を取り出すと、それを神社の絵の裏に貼った。それから絵を壁に戻したのだが、特に何かが変わった様子はない。空気は変わらず冷たいままであり、気味の悪い気配が感じられるのである。
「これで、本当に大丈夫なんですかね?」
「……大丈夫じゃない」
 と、夕美が言った。焦りと、恐怖とがないまぜになったその声色に、小夜子も狼狽した。
 夕美の表情を見た小夜子は、すぐさま壁から絵を剥がし、その裏を見た。すると、確かに護符はそこにある。ないわけがない。たった今さっき、小夜子が自分で貼ったのである。
「そんな馬鹿な……!」
 完全に想定外であった。お札を貼れば、この怪奇現象も終わると思っていただけに、小夜子は愕然としてしまった。と同時に、彼女の胸を、凄まじい衝撃が襲った。ここにきて、さすがに小夜子も焦り始めたのであった。
「ど、ど、ど、どうしましょう。ほかにお札を貼る場所なんて思いつきませんよね」
 香苗の声で、小夜子は我に返った。
 いや、ここは一度、落ち着こう。
 そうして深呼吸をしながら前髪をかきあげると、小夜子はきりと眉をひそめた。
「やっぱり、あの門を先に何とかしないといけないと思う」
 開かずの門を開ける条件はいくつかあるが、幽霊が学校中を徘徊しているというこの状況を作り出しているのは、あの門以外に考えられない。ともすれば、まずは門を閉じ、それから順を追って封を施していかなければならないのだろう。
「いくらここでお札を貼ったところで、あの門が開きっぱなしだったら、意味ないんだよ。きっと」
「じ、じゃあ。お札をあの赤い門に貼ったらいいってことですか?」
 声を震わせながら、香苗が夕美を見た。
「いや、あの門には近づかない方がいい。あれに近づきすぎて、あっち側に行ったりでもしてみろ。一発で終わりだよ。そもそもあれを、あたしらが閉じられるかも怪しいしな」
 小夜子は、赤い開かずの間を前にしたときの、夕美の怯えようを思い出した。
「だいたい、札は絵の裏にあったんだろ? なら、それはそのための封だ」
「札なだけに?」
「あのね……。さすがにこんな状況で、あたしがそんな馬鹿なこと言うと思うの?」
 ぎっ、と鋭いまなざしで睨まれ、小夜子はさっと手を挙げた。
 同時に、はあ、と息のこぼれる音がした。小夜子と夕美の会話を聞いていなかった香苗が、すっかり気が滅入っているのか、深く大きなため息をこぼしたのである。
「一体どうしたらいいのか……」
 と、夕美もううむと唸り、それからしばらくの間、黙り込んだ。
 三人ともがしゃべらなくなると、美術室の中はずいぶんと静かになる。もとより生き物の気配すらしない夜の学校である。静けさに辺りが包み込まれるのは当然と言えるが、それでもここまで無音になるものだろうか、と小夜子は何気なく考えた。
 そうして音のない世界に沈んでいた時であった。
 夕美が唐突に、悲鳴を上げた。
 つられて小夜子も大きな悲鳴を上げながら、小さく跳ねてしまった。
「え? なに? どうしたの?」
「い、いま……。女の子が……」
「女の子? いないですよ。何言ってんですか。やめてくださいよそーゆーの……」
 夕美は白い顔を青ざめさせながら、がたがたと震えていた。何か見えたのだろうか。
「女の子が、どうしたの?」
「ここは、違うって……、さっきアタシの耳元で……」
「どんな子?」
「分からない。たぶん、三歳とか、そんぐらいの小さい子」
 夕美がそういった瞬間、
 くふふ……。くすくす……。
 女の子の笑い声が聞こえた。今度は、確かに小夜子の耳にも入った。
 と、美術室の扉がひとりでに開き、ぱたぱたと軽い足音が廊下に響いた。
「どうする? 行ってみる?」
 怯えている夕美の手を、小夜子はそっと握った。
「……そうだな。でも、もしやばくなったら、すぐに逃げるぞ」
 行って、小夜子たちは廊下に出た。
「あっ」
 夕美が小さく声を上げた。廊下に出てすぐである。おそらく、彼女には何かが見えているのであろう。
「階段、上がって行ったぜ?」
 そう言うと夕美は、どうする? と意見を求めるように、振り向いた。
「行くしかないでしょ。今のわたしたちには、他にできることもないし」
 小夜子は、手の中にあるお札をポケットに突っ込み、階段を登りはじめた。
 そうして三階に上がると、ぱたり、と扉が閉まる音がした。
 音がしたのは、夕日の明かりが小窓からこぼれる音楽室であった。
「ここに来いってことかな?」
 小夜子は迷わず音楽室のドアノブを回した。
 音楽室の中に入ると、そこだけは相変わらず夕暮れであった。
 いや、依然と違うところと言えば、ピアノの演奏だけがなかった。
「ゆみちゃん。女の子いる?」
 小夜子は、振り返って夕美を見た。
「いや、いないけど……。あのピアニストは戻ってきてる……」
 言われて、小夜子は音楽室の窓際に置かれてあるグランドピアノを見た。
 しかし、そこには人影はおろか、気配すら感じられない。
 と、ピアノがひとりでに動き始めた。ドビュッシーのアラベスク第一番。なにか、思い入れのある曲なのだろう。
 ふと、小夜子はピアニストの演奏を聴きながら、あることを思いついた。
「すいません! このお札を元の場所に戻す方法、知りませんか?」
 小夜子が大きな声を出して彼女の演奏を止めたのは、実に単純な理由であった。
「ば、馬鹿かお前は! なにかんがえてんだよ!」
「いやあ、同じ幽霊なら、なにかご存じないかなって。今んとこ、この人と、あのお侍さん以外に話の通じそうな人っていないじゃない?」
 もはや、電気屋にやってきた客に、商品の説明をさせようとしている客である。
「それで、なんて言ってるの?」
「何も……。ただ困ったなって顔してるよ」
 そうしてピアノ演奏は止まっていたのだが、しばらくすると、鍵盤は再び動き始めた。しかし、流れるその旋律は、アラベスク第一番とは全く違うものであった。
「この曲は……」
 その曲を、小夜子は知っていた。
「ああ、これはあたしでも知ってるな。中学の時に歌ったような覚えがある?」
「へえ、これ歌ったんですか? 私んとこの中学だと、下校時間によく流れてましたよ、この曲。ええと、何て名前でしたっけ?」
「これはね。ドヴォルザークの新世界交響楽だよ」
「新世界?」
「そう。新世界交響楽、第二楽章。この辺りは、どこもこの曲が夕方になると流れるの」
 その曲を、そこにいるであろう女性は弾いているのである。
 お札を戻す方法を尋ねると、彼女はその曲を弾き始めたのである。
 なぜだろうか。死人に口なしとはいうが、しかし小夜子にはこの時、幽霊ピアニストの言わんとすることが、なぜだか分かった。見えもしない相手の言おうとしていることであるが、それでも分かった。いや、理由はある。その曲に込められた思いや、つけられた日本語歌詞のことを考えると、それしかない、と小夜子は確信した。
 と、演奏が終わり、それを最後に、幽霊ピアニストは消えた。いや、消えたかどうかは夕美にしかわからないのだが、それ以上、ピアノは動きださなくなり、ありもしない気配も消えてしまったのである。
 小夜子はすぐに、音楽室にある扉を見た。音楽室の隅の、入口とは別の扉である。それは、音楽準備室へと向かうための扉であった。
 小夜子はその扉の前までかけていくと、開けて中に入った。
 音楽準備室の中は、音楽室と違って暗いのであるが、夕焼けの明かりによって僅かに照らされてもいた。そして、小夜子は音楽室の中を注意深く見回して、あるものを探した。
「何やってんだ、小夜子?」
「たぶん、あの先生のことだから、ここに置いてると思うんだけど……」
 小夜子は、放課後に教師と話した時のことを思いだしながら言った。
 見たところ、小夜子の探しているものは見当たらない。彼女は部屋の中にあるロッカーを開けたりなどしはじめ、そうして一つの黒い箱を見つけ出した。
「なんですか、それ?」
「トランペット」
 言って、小夜子はケースを開けた。黒いケースの中には、クッション用のふわふわとした黒い毛の内装が施されており、その中心にはきらきらと輝く金管楽器が入っていた。
 小夜子はケースの中のトランペットを手に取ると、小さく一息をついた。
「たぶん、さっきの曲を演奏すればいいんじゃないかと思う」
「さっきの曲って……。新世界、こうきょーがく、だっけ?」
「うん。ねえ、夕美ちゃん。その曲の歌詞、まだ覚えてる?」
「ああ? ううむ、そうだな。うろ覚えだけど、一番だけなら、たぶん、なんとか」
 夕美がそういった瞬間、窓から差し込んでいた夕日の暖かい光が消え、ついに音楽室までもが深い闇の中に沈んでしまった。
「うわ、真っ暗。……そうだ、カナちゃんはどう? さっきの曲の歌詞、知ってる?」
「私はぜんぜん知らないです。メロディーだけで」
「分かった。じゃあ夕美ちゃん。いつでも合わせていいから、お願いね?」
 そういうと、小夜子はトランペットの歌口に、そっと唇を当てた。
 ぷあん!
 あまりに大きな音を出したため、夕美と香苗がほぼ同時に目を閉じながら耳を塞いだ。
「ごめん、ごめん。今のはちょっと失敗」
 苦笑いしながら小夜子は言った。それから、さすがに少々力みすぎたと考えた小夜子は、二度、大きく深呼吸をして気を落ち着けた。
 そして、トランペットを吹いた。
『ドヴォルザーク、新世界交響楽、第二楽章・トランペット独奏』
 曲は、最初、まるで深い絶望の底からようやく小さな希望を見つけたかのような、あるいはあらゆる闇を打ち払う、生きる力の源になる太陽の輝きを感じさせるような、そんな旋律から始まった。どこか威厳を感じさせるような深みのある音である。
 そこから、曲はがらりと変わった。
 穏やかで、安らぎを与えてくれるような音色。
 夕焼けの持つような、心地の良い暖かさのある旋律。
 小夜子の演奏は、身を任せて聴いていると、不思議と心が洗われるかのように、やさしい気持ちになれるようなものであった。そもそも彼女は、ただ譜面に書かれてある記号の通りにトランペットを吹いてはいなかった。この曲を、この演奏を聴かなければならない者たちのために、彼らに帰り道を教える、道しるべとなるべく吹いていたのであった。
 そうして、小夜子は集中して演奏していた。だからこそ、彼女はしばらくの間、三人の周りに人の形をした薄い影が、いくつも立っていることに気がつかなかった。
 ぽつり、ぽつりと、影たちは次々と湧いて出て、小夜子の演奏を聴いていた。
 しばらくすると、その影たちが、ゆっくりと歩き始めた。
 教室の外に向かって、音もなく歩き始めた。
 扉はひとりでに開き、彼らを教室の外へと出した。
 そのころになって、小夜子はようやくそのことに気がついたのだが、同時に小夜子も、演奏しながら扉の方へと向かった。夕美と香苗は小夜子の後を、黙ってついてきていた。
 教室から外に出ると、廊下にはいくつもの影が、ゆらり、ゆらりと歩きながら、どこかを目指して歩いていた。そしてその影たちは、何も音楽室から出たものだけではなく、見ると、下の階からも、あるいは廊下の先からも、ぞろぞろと現れていたのである。
 どこへ向かっているのだろうか、と夕美と香苗は不思議そうにしていたが、小夜子にはそれが分かっていた。彼らが向かう場所は、一つだけだからである。
「……。とーおきー、やーまにー。ひーはおーちてー……」
 そのことに気がついた夕美は、静かに歌いだした。
 それから、次第に声量を上げ、そうして小夜子の吹くトランペットに負けないぐらい、しかし彼女を邪魔しない程度の声で、歌った。普段からギターの弾き語りをよくするだけあり、夕美の歌声には迫力と技量があった。そして夕美もまた、彼らを導くために、歌に思いをのせて歌ったのである。
 小夜子たちは、第一校舎の三階から四階へ、そこから渡り廊下を通って第二校舎へと向かった。その道中、彼女たちの周りには、同じ足取りで進む、黒い影たちがいた。顔すらわからない、ただ人の姿かたちをしただけの影たちの背中は、どこか寂しげであった。
 そうして第二校舎にたどり着くと、影たちの流れは目の前に伸びる廊下の先へと向かっていた。赤い開かずの間がある方向である。本来ならば、避けて通りたい道であった。
 開かずの間のある方を向くと、小夜子は臆することなく先へと進んだ。その後ろを、夕美は歌いながらついている。ちらと夕美を見ると、彼女の目には怯えていた時のような色はなく、迷いがないようでった。そして、最後尾の香苗は、ただ黙ってついていた。
 しばらく歩いていくと、音もなく進む黒い影たちが、開ききった赤い開かずの間の扉の奥へと向かっているのが見えてきた。一人、また一人と奥へ消えてゆく。
 彼らはこの世に未練を残しつつ、長く短いその生涯を終えたことを思いだし、先に待っている家族のもとへと向かっていた。そこはきっと、彼らにとって心安らぐ場所であろう。
 道は、優しい歌声と、かがりびたるトランペットの音(ね)が示してくれている。そうして彼女たちに見守られて、彼らは静かに家路についていた。
 気がつくと、辺りはほんのりと白ずみはじめていた。
 夜明けがやってきたのである。
 山と山の間から、次第にのぞかせる日の光は、どこか神々しくあった。
 その光を見て、小夜子が演奏している曲に、夕暮れ時の曲であるという印象と先入観を持っていた香苗は、その時初めてその曲が昇る朝日を描いたものだと感じた。終わらない夜の底から日の光を見上げ、新しい一日の始まりを予感させるような、そんな曲である。
 そうして、朝もやがかかりつつも、成上市はすっかり明るくなっていた。
 と、三人は、いつの間にか学校の屋上に立っていた。
 それに気がつくと、夕美は歌うのをやめ、香苗と二人で屋上から街の景色を眺めていたのだが、それでも小夜子はしばらくの間、トランペットを吹くのをやめなかった。

「それで、お札はどうなったんだろうな」
 言いながら、夕美は小夜子から返してもらったパーカーを、ブラウスの上に羽織った。
「確認しに行ってみる?」
「いや、いいか。学校から『あの人たち』の気配もなくなったしさ」
 そう言いながら、夕美は大きく伸びをした。
「あーあ。疲れた……」
「今日が休みでよかったね。そう言えば、時計はどうなってる?」
「ちゃんと動いてるな」
 と、小夜子はトランペットを音楽準備室の、元の場所に戻しながら言った。
「あの……。これでもう、あの門が開くことはないんですかね?」
 ところが、その二人の会話を少し離れた位置で聞いていた香苗だけは、本当にこれで丸く収まったのかと、不安に思っていた。オカルト記事ばかりを書いてきていながら、その実、心霊現象に今まで遭遇したことがないからこそ、納得のできる理由が欲しかったのである。
「さあ、どうかしらねえ……」
「どうかしらねって……。お二人は、こういうことに詳しいんじゃないんですか?」
「詳しいってほどでもないけど、ただ、一つ言えることは――」
 人差し指を立て、親指を立て、そうしてその指先を小夜子に向けられた香苗は、ごくり、と唾を飲んだ。
「今回の騒動の原因を作ったのは、他でもない、新聞部よ」
「……ん? え? どういうことです?」
 香苗の心臓が、どきりと跳ねた。それは、彼女自身、心当たりがあるからに他ならない。
「あなたたち、『成上校七不思議』について記事にしたことがあるでしょ? 正直、あれが一番いけなかったと思うのよ」
「確かに、その記事は……」
 その記事は、新聞部が作り、学内の掲示板に掲載したことがある。しかも、その記事自体は、オカルト記事担当の香苗が書いたものである。
「夕美ちゃんも言ってたじゃない。七不思議は七つ目が何かわかった時に何かが起きる、って。『成上校七不思議』にはね? 最初から七つ目の不思議なんてなかったのよ。『七つ揃うこと』それ自体が、鍵の一つだから」
 香苗はさらに、七不思議が学内で流布するようなことを煽る文章を書いたということを思い出した。すると、この清々しい明け方の音楽室の中で、香苗は次第に息苦しくなっていった。
「大多数の信じる嘘が真実であるように、みんなが音楽室の幽霊を七つ目に数えれば、それだけで七不思議は完成するわ。その状態でお札を剥がして、こっくりさんをやったのだから、門が開くのもしょうがないわよ。……まあ、わたしは何が起こるかまでは知らなかったけど、この学校自体、鬼門の方角にあるんだから、起こるべくして起こったともいえるけどね」
 得意そうに説明する小夜子。責任を感じる香苗。その二人を見ながら、夕美は眉をしかめた。
「……やけに詳しいじゃねえか、小夜子」
 夕美の言葉と同時に、びくりと小夜子の動きが止まった。
「お前、それだけのことを知っておきながら、何も言わずにいたのな。お札を剥がすところも止めず、こっくりさんをやるときも止めず。……何の目的があってそんなことやったんだよ」
「ええと……。ほら、その……」
 夕美に問い詰められた小夜子は、ちらちらと香苗のことを気にしながら、しどろもどろになった。その様子を見て、夕美は大きくため息をついた。香苗に、新聞部の人間に聞かれるとまずいような理由があるのだろうと察したが、それにしても自分に何も言わなかったことにも腹が立つ。そうした複雑な感情をまとめようと、夕美はわざとらしく息を漏らしたのであった。
「まあ、お前の目的は一つだろうけどさ。それにしたって、言ってくれりゃあいいじゃんか」
「ほんとにごめんね? でも、敵を騙すにはまず味方からって言うし」
「……お前。あたしの悪い所ばっかり真似するよな」
 そうした二人のやり取りを見て、置いてけぼりになっている香苗が、声を上げた。
「ちょっと待ってください。どういうことですか? 目的って何のことです?」
「それは教えらんないわよう」
「だいたい、牧原さんは鎧に斬られた傷だってあるし、そのことも説明してくださいよ!」
「それも教えらんないわねえ。とりあえず、カナちゃんは先にやることがあるでしょ?」
 言われて、香苗はぐっと言葉を飲み込んだ。確かに小夜子の言う通り、香苗が先にやるべきは『成上校七不思議』の七つ目をなくし、不完全な状態に戻すことである。そこは、自分が煽った責任もあり、香苗は何も言えなくなった。
「まあ、小夜子のことは後で聞くとして。まずはアサムラをどうするか考えようぜ」
 と、追い打ちをかけるように、夕美が言った。
「こいつら新聞部にあたしらのことをあることないこと書かれたんじゃあよ。たまんねえからな。いくらあたしらが他人にどう思われようと何とも思ってないとはいっても、だ。さすがに限度ってもんがある」
「わたしは別に、何を書かれてもどうでもいいけど……。そうね。夕美ちゃんが困るようなことを書かれるのは嫌だし……」
 あわわ、と香苗は震えた。霊能力のある夕美や、得体の知れない小夜子の二人が何を考えているのか、自分に何をしようとしているのかと、それが全く見えないため、青ざめたのである。
「じゃあ、こうしよう!」
 ぺち、と手を叩きながら、小夜子が明るい声で言った。
「学校で流行ってる、妙な噂とか、都市伝説とか、そう言うのをわたしたちに報告すること。わたしと夕美ちゃんは噂を実際に検証に行くけど、そのときについてきてもいいから、わたしたちのことは、絶対に何も書かないこと。これでどう?」
「……」
 香苗は数瞬、固まった。初め、小夜子が何を言っているのか、気が動転していたこともあって理解できなかったのである。そして、ようやく彼女の言ったことの意味が分かっても、今度は「なぜ」という疑問が浮かび上がった。
 とはいえ、それは夕美も同じの様であった。
「おいおい、ちょっと待ちなよ小夜子。なんだよ。それじゃあ、得するのはお前だけじゃねえか。……ってか、なんであたしも検証することになってんだよ。お前一人で行け」
「いやん。そんなこと言わないで」
 ふざけた声色で言いながらも、小夜子は香苗には見えないように、夕美にだけ見えるように、真剣な表情で片目を一瞬だけ閉じて見せた。
 その合図を受け取った夕美は、ふう、と小さく息を漏らした。
「分かった。いいよ、それで。……そう言うわけだから、アサムラ。悪い話じゃあないんだからよ。あたしらのことは、くれぐれも記事にするなよ?」
 言いながら、夕美は頭をぽりぽりとかいた。
「……分かりました」
 やや間をおいて、香苗は応えた。確かに、悪くない話であるのだから、彼女としても乗らない手はなかった。
「よし、決まりね!」
 言って、小夜子が二人の手を取った。
 にこにこと眩しい笑顔で二人を見る小夜子。
 その小夜子を困り顔をしながらも、まんざらでもないと笑う夕美。
 そして、昨晩からこの朝までに起きた出来事を、いまだ整理できていない香苗。
 眩い日の光に照らされた、土曜の早朝に、三人は成上高校を後にした。

 そうして人のいなくなった校舎の中で、しかし、軽い足音と、小さな笑い声が、響いていた。
 
 くふふ……。
 
 


 六月二十一日、土曜日。午前七時。
 重々しさの色彩と質感のある板。そこには、縦長のすりガラスが二枚ついている。そして、そのすりガラス越しに差し込む陽光によって、板の前の石タイルの床が、わずかに照らされていた。いや、薄い光を受けているのは床だけではなく、その上にきれいに並べられている、いくつかの革靴たちもそうであった。
 高級住宅らしく広々としている玄関は、しかし住んでいる人間がまだ起きていないせいか、明かりがつけられておらず、少々薄暗くあった。
 と、玄関扉の取手が動き、ゆっくりと開き始めた。
 なるべく、可能な限り音を立てないように、静かに開けられた。
 そうして外からそっと顔をのぞかせたのは、小動物のような愛らしい顔の、朝村香苗であった。ただ、彼女の顔は緊張しており、家の中の様子を確かめているのである。
 家族が朝食にしているであろうリビングへの扉は、閉まっている。廊下には人影はなく、このまま目の前にある階段を静かに駆け上がれば、深夜に家に帰ってきたことになるであろう。香苗はそう考えながらローファーを乱雑に脱ぎ捨て、忍び足で階段まで走った。
「香苗」
 と、背後から声がして、香苗はびくりと飛び上がりながら、足止めた。
 振り返ると、そこには眼鏡をかけたスーツの女性が立っていた。
「た、ただいま……。おかあさん……」
「一体、今までどこにいたの? 子供が夜遊びなんて許されると思っているの?」
 不機嫌そうに睨みつけてくる香苗の母親は、香苗でなくても睨まれれば身がすくんでしまう、鷹の眼のような気迫があった。
「ケイイチロウやノブユキの二人はあんなに優秀だというのに、あなたはどうして……」
「まあまあ、母さん。そこまでにしておいてやりなさい。香苗もまだ高校生になったばかりだ。遊びたい盛りなんだろう」
 と、リビングの方から父親が顔を出してきた。立派なひげに、威厳を醸し出すバッヂをスーツの襟に着けた、厳格そうな男である。
「それに、ケイイチロウもノブユキも、高校二年になってから、ようやく真面目に勉強を始めただろう? 今の成績が悪くても、香苗にもワシらの血が流れているのだから、きっと真面目に勉強をすればできるはずだ」
「だけど、あなた……!」
「うむ。分かっている。……それでも、香苗。年頃の娘が朝帰りと言うのは感心しない。どこで何をやっていたのか、それだけははっきりと言いなさい」
 言われて、香苗は小さくなったまま、恐る恐る口を開けた。
「そ、その……。学校の友達と……。学校で肝試しを……」
「それだけかな?」
「は、はい……」
 朝村香苗は、できることならあまり家にいたくなかった。単純に居心地が悪いのである。
 香苗の父は裁判官であり、母は弁護士である。そして、香苗の上には二人の兄がおり、長男のケイイチロウは自衛官、二男のノブユキは警察官である。それだけでなく、香苗の父の父や、父の母もまた優秀な人間であり、香苗はそうした家に生まれていたのである。
 ところが、どこで何を間違ったのか、香苗だけは違っていた。学校の成績や、運動能力は軒並み悪く、中学校のころから厳しくしつけてきた母親を悩ませていたのである。その上、香苗にはこれと言って、なにか将来やりたいこともなかった。二人の兄は、それぞれ子供のころからの夢を叶え、香苗にはまぶしいぐらいの人間になっていたのである。
 だからこそ、香苗は居心地が悪かった。優秀な人間に囲まれ、周りから向けられている期待のまなざしに応えられず、申し訳ないと思うと同時に、そんな自分が嫌になっていた。
 香苗が夕美と小夜子に接触したのは、そう言った家庭の事情が背景にあったのも一つであった。と言うのも、自分とは違い、周囲の視線や評価をまるでものともせず、ただ自分のやりたいことのために我が道を行く、そういう二人の生き方に、実のところ、ひそかに憧れていたのであった。











次回で学校七不思議編が終わります
学校七不思議編
都市伝説編
おかあさん編
最終章
の四編構成を150ページ以内でやった狂気的な内容だけど
一編一編の内容はかなり濃いし
それぞれ独立した話として完結するので
これでとりあえずひと段落つくということ

都市伝説編は書き直したいので
しばらく連載止めるかもしれません
……つまり、まだ修正が終わっていないということ
あしからず
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