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今は遠き夏の日々 ~都市伝説編 その四~

 人面犬の噂

 七月十四日、月曜日。
「やっほー、陽見先輩」
 と、香苗はオカルト研究部の扉を開けながら、部室に入った。
「やあ、アサムラさん」
「今、先輩一人だけですか?」
 うむ、と陽見太一は頷いた。それから香苗も部室内を一瞥したのだが、主に撮影を担当している村田も、自称霊能者である岩瀬の姿も、そこにはなかった。
「一条さんのことについて、ちょっと聞きたいことがあってきたんですけど。あと、何か面白そうな噂話もついでに教えてほしいなあ、なんて」
「面白そうな話ならあるよ。最近、稲穂坂町で『人面犬』が出るらしい」
「……人面犬?」
 七月四日、金曜日。
 成上市、稲穂坂町を駆け抜ける男が、一人いた。大きなスーツケースを抱え、顔に血糊がべとりとついていることにも気がつかず、必死に走る男がいた。
 ふいに、男は立ち止まった。呼吸を整えるためである。それから男は、汗を拭うために顔に手をあて、そこでようやく、自分の顔に血がついていることに気がついた。
 男は服の袖で血を拭きとると、乱れていた上を手櫛で整え、深呼吸をして、何事もなかったかのように悠々と歩き始めた。
 と、男の心臓が、跳ねた。
 強烈な視線。殺気にも似た気配を感じたのである。
 見ると、そこには犬がいた。大きな犬である。背骨やあばらが浮き出るまでに痩せ細った犬である。毛並みも酷ければ、首輪すらついていない、薄汚い犬であった。
「……なんだ、野良犬か?」
 言いながら、男はスーツケースを持ち直した。持ち直し、ふと、考え込んだ。
 稲穂坂町に野良犬……?
 いくら路地が入り組んでいるとはいえ、稲穂坂は非常に治安のいい場所である。いや、そもそも、成上市に野良犬が現れるなど、今までに一度たりとしてなかったことである。
 妙だ、と思った男は、足を振り、スーツケースを振り回して犬を威嚇した。
 そして、再び走り出そうと進路を変えた瞬間、凍りついた。いつの間にか、男の周りには同じように痩せ細った、薄気味の悪い犬たちが囲っていたのである。
「な、なんだお前ら……!」
 悲鳴のような絶叫が、人通りの皆無であるオフィス街に、虚しく響いた。
 異常である。どう考えても異常であった。犬たちの眼は、表情は、どれもみな、感情がないようであるというのに、確かに瞳の奥から、尋常ではない殺気を感じるのである。
 一頭、一頭と、犬はどんどん増えている。見るからに、血統書のついているような犬ではない。野良犬と言うより、野犬、山犬と呼んだ方が正しいような、獣であった。
 犬たちの眼に恐怖した男は、悲鳴を上げるのも忘れて、必死にその場から逃げ出した。
 瞬間、稲穂坂町の、オフィス街らしい街並みが、消え失せた。
 かん、かん、
 男の眼に映ったのは、
 かん、かん、
 黄色と黒の縞模様の棒と、
 かん、かん、
 赤く点灯するランプ、
 かん、かん、
 そして、迫りくる大きな鉄の壁。
 かん、かん。

 六月三十日、月曜日。
 空を覆う灰色の雲が、一向に去る気配のない、そんな日の事であった。
 一条小夜子は、奇妙な感覚に悩まされていた。胸騒ぎがしているとでもいうべきか。あまりにも曖昧な気配だというのに、それが頭にこびりついて離れようとしないのである。
 そうした小夜子を見て心配に思ったのか、
「どうした? 普段は無駄に元気なのに、今日はずいぶんと静かじゃないか」
 夕美が声をかけてきた。
「なにをおっしゃる。わたしはいつでも元気ですぜ」
 にっ、と小夜子は笑って見せた。
 とは言いながらも、やはり何か、引っかかるものがあった。こういう場合は何か、よくないことが起きる前兆である。小夜子はそれまでの経験もあって、不安になり始めていた。
 そして、その予感は、現実のものとなった。
 放課後、さあ帰宅しようという頃になって、朝村香苗がやってきた。
「よお、朝村。昼飯ん時には来なかったけど、今日も妙な噂話でも持ってきたのか?」
 と、茶化すように夕美がいうと、香苗は右の眉を曲げ、口を歪ませ、悔しそうとも、苦しそうともとれるような、小難しい顔をした。
「それが……。今日は噂検証じゃなくて、手伝ってほしいことがあるのです」
 改まってどうしたのか、小夜子と夕美は互いに顔を見合わせた。
「手伝ってほしいことって?」
「一昨日、昨日、今日のこの三日間で起きた事件について知ってますか? 公園とかに、殺された犬の首だけが放置されてるっていう事件」
 犬の首……。
 その言葉を聞いた瞬間、小夜子の顔から血の気が引いた。
「今朝の新聞にも載ってたんですけどね?」
 言いながら、香苗は鞄から地方新聞紙を取り出した。
「ほら、これです。成上市で、相次いで切断された犬の頭部だけが見つかってるって」
「な……、なにそれ……」
 小夜子は、声を震わせた。驚愕のあまり、思わず立ち上がってしまったのである。と、すぐに二人の視線に気がつき、椅子に座った。
「しかし、酷い話だな。この手の事件てたまに聞くけどさ。ほんと、胸糞悪い。……にしても、手伝ってほしいってのは?」
「実は新聞部が、この事件を調べて犯人を見つけようとしてるんです」
「そんなの、警察の仕事だろ? あたしら高校生の出る幕じゃえねえよ」
 すぱっ、と夕美が斬って捨てた。とはいえ、そんなことは自分も分かっているとばかりに、香苗は依然として難しい顔をしたままでいた。
「それはそうなんですけど……。一昨年、この成上市で連続殺人事件があったの、覚えてますか? ……なんでも、当時の新聞部の部長があの事件を解決に導いたらしくて、今の部長、負けてらんないって息巻いてるんですよ。……まあ、言ってしまえば、私は完全にとばっちりなんですけど。ある程度は成果をあげないと、しこたま叱られるんで」
「いいじゃねえか。しこたま叱られて来い。どうせ、解決なんてできやしないんだから」
「嫌ですよう。家でもしこたま叱られてるのに」
「これ、わたしたちで犯人を見つけよう」
 記事の文面を見ながら、小夜子は言った。その瞬間、二人の少女は固まってしまった。夕美は驚愕し、香苗は期待して、言葉を失ったのである。
 そして、小夜子は顔を上げた。その表情は、どこか高圧的でありながらも、威厳があり、力強くあり、香苗を緊張させるほどであった。いや、緊張させるどころではなかった。
「見つけ出して……。必ず償わせてやる……」
 小夜子の冷たい目に、二人は戦慄した。

 校内から、全く人の気配がなくなったわけではないが、それでも生徒の数が減り、いくらか静かになったころ、一年の教室ではいまだ、話し声がしていた。他のどの教室にも生徒は残っていないというのに、三人の少女たちが一つの机をかこっていたのである。
 机には、新聞の切り抜きやメモが置かれてあるほか、成上市の地図が広げられていた。
「この三日間、計七か所で犬の首が見つかってるんです」
 そう言うと、香苗はペンを手に取り、地図に印をつけた。
「まず、ええと、最初に犬の首が見つかったのが、成上駅の南に広がっている商業地区。いわゆる駅前通りですね。ここの南端にある、ちょっとした公園です」
 香苗が言うと、げっ、と短く、彼女の隣にいた少女が言った。生気を感じさせないほどの、不気味なまでに白い肌と、ほとんど白に近い金髪の少女である。
「わりとあたしが住んでるとこの近くじゃねえか、これ」
 と、夕美は顔を歪めた。
「発見された日時は、一昨日、土曜日の早朝。同日の夕方には、成上校の真東にある、小さな公園でも発見されてます。一日に二頭の首が見つかったわけですね」
「ふむ……」
「それから日曜日になると、今度は三つの首が見つかってます。一つは、商業地区の西側にある新成上団地。二つ目は工業地区を挟んだ、北側にある旧成上工業団地。それと、成上校から少し西、成上町内で。いずれも、公園で発見されたらしいです。……さすがにこうなると事件としてテレビニュースや新聞にも取り上げられてます」
 長い黒髪を首筋の辺りでまとめた、夜空色の瞳をした少女が、ふうむと唸った。彼女は体の重心が右に傾くように机に肘をついており、右手は口を覆い、左手でペンを回していた。香苗と夕美は、唸る彼女の様子を、静かにうかがった。
「……それで、えっと。今日は、友達とかに聞いたところだと、線路沿いにあるマンション地帯の近くと、あとは工業地区で一つ、見つかったっていう話を聞いてます」
 かしゃん。
 と、回るペンが止まった。そして、
「……ふむ」
 そう短く息を漏らすと、小夜子はゆっくりと体を起こした。普段とは様子の違う小夜子に、香苗と夕美は緊張するばかりであったが、とはいえ、激昂していた時よりかはいくらか冷静になっているため、真剣で落ち着いた様子に見えた。
「他に、使えそうな情報とかってある?」
「殺された犬は、飼い犬だったらしいってことと。犯人らしき人物の目撃情報が皆無ってことぐらいですかね。……あとは、どの犬も、西成上町の飼い犬だったらしいです」
「西成上町っつったら、あれか。古民家っていうか、屋敷っぽい家が多いとこだろ?」
「そうです。私たちの今いる成上町が、成上市のほとんど中央でしょ? それで、このまえ調べた横断歩道が、東成上町との境目で……」
 ふいに、香苗は地図を見ながら違和感を覚えた。
「どした、朝村?」
「ああ、いえ、なんでもないです」
 何かに気がつきそうになるも、湧き上がった疑問はすぐに頭の奥底へと沈んでいった。
「……成上町と東成上町は、どっちも街並みの綺麗な新興住宅地になってるじゃないですか。でも、対照的にというか、西成上町は街並みが古風なんですよね」
 そして、再びペンで地図を指しながら、香苗は続けた。
「ただ、見た目は古い家ばかりなんですけど、この辺りの家よりも一軒一軒の敷地面積がかなり広いんですよ。噂だと、単にお金持ちばかりが住んでるわけじゃなくて、やくざ屋さんとか、成上市を陰で支配してる人が住んでるらしいです」
「その噂が本当かどうかは置いといて、そんな噂が立ってるようなとこの犬を狙うあたり、犯人にはそれなりの目的がありそうだな」
「……ところで」
 と、それまで地図を睨んでいた小夜子が、香苗の顔を見上げた。
「新聞部は、どの程度この事件を調べるつもりなの?」
「先輩たちは、犯人を特定するまではいかなくとも、どの辺りに住んでるか、ぐらいの見当はつけようとしますね。だから、私的にはそのぐらいでいいんですけど――」
「――それで、新聞部の見解は?」
 香苗の事情など知ったことかと言わんばかりに、小夜子は口を挟んだ。
 瞬間、香苗はどきりとした。香苗は、新聞部の先輩たちに囲まれている時よりも、はるかに緊張していた。やはり、今日の小夜子はどこか、雰囲気が違うのである。
「ええと、ですね……。そ、そう! 確か、いきなり犬の首を切断して遺棄したりはしないだろうから、その前に他の動物をおそってるとか、実験とかしてるんじゃないか、と」
「たぶん、そうだろうね」
 そう言って、小夜子が頷いた時であった。
 ぐぎゅる。
 腹の鳴る音がした。ずいぶんと大きな音である。
 三人の少女は、三様に固まった。誰が、腹を鳴らしたのか。これまでぴんと張られていた糸が、そのままの状態だったため、緊張した空気が教室の中の時を止めた。
「……お腹空いちゃった! マック行かない?」
 小夜子がそう言って立ち上がると、夕美と香苗は全身から力が抜けたように感じた。

 成上校を後にした三人は、成上駅のすぐ近くにあるファーストフード店に入った。そして、注文をすませた後、店内のテーブルでも地図を広げ始めた。
「さて、と。それじゃあ、さっきの話ですけど……」
 言いかけて、香苗はちらと小夜子の方を見た。
「……私は軽く食べ物を挟むつもりだったのに、一条さん、フルコースですね」
「えっ? いつもこのぐらい食べてるわよ?」
 量も多ければサイズも大きい。よくそれで太らないなと、香苗は感心した。
「あ、はい。……まあいいや。――それで、新聞部の言ってたことなんですけど。……犯人は成上駅を中心にして、成上市の中に円を描くように犯行を重ねてるでしょ?」
「みたいね」
「山陽線を境に、北の成上町、南の繁華街と工業団地。一連の事件を起こす前に何かしてるなら、おそらくこの円の中だろうって、先輩たちは言ってます。何か目的があって成上駅を囲んでるんでしょうし、さすがに犬の首を持って遠出もしないだろうって」
「どうだか……。大体、素人が犯人を特定しようっていうこと自体、無理があるぜ」
「私もそう思うんですけどねえ。それ言ったら怒られるの目に見えてるし。……でも、個人的にちょっと試してみたいことがあって」
「試してみたいこと……?」
「ええ。……一条さん、ちょっと頭かしてくれます?」
「……? はい」
 香苗が何を考えているのかは分からないが、小夜子は彼女の前に頭を出した。
 すると、香苗は遠慮もなしに、小夜子の髪の毛を一本、引き抜いた。
「……ん! いったーい! なにしてるのよ!」
 香苗は自分の財布から五円硬貨を一枚だけ取り出すと、小夜子の髪の毛を五円玉の穴に通して結び付けた。そして、髪の毛の端を持ち、五円を吊り下げたのである。
「お前、ほんとに何してんの?」
「ふっふっふっ……」
 と、不敵に微笑むと、
「ダウジングですよ」
 香苗はそう言った。
「振り子占いともいうんですけどね? たぶん柳瀬さんならうまくいくと思いますよ」
 言って、香苗は振り子を夕美に渡そうとした。
「あ? あたしにやれっての? やだよ、ばっちい」
「なんですって? 夕美ちゃん、あなた後で覚えてなさいよ」
「おお、こわいこわい。……んで? これでどうしろって?」
 夕美は嫌そうな顔をしながらも、しぶしぶ、つまむように振り子を受け取った。
「まず、振り子を地図の中心に据えます。それから、目を瞑って、探したいものを頭の中で念じるんです。まあ、普通は探し物をするための占いなんですけど」
「なら、なんて念じる? 次の犯行現場?」
「……ここは思い切って、犯人の現在地を占うなんてどうかな?」
 店内の明るい雰囲気とも、日が暮れはじめた外の景色。それとはまるで違う空気が、三人の少女が座っている場所に流れた。
「もしかして、一条さん。今日中に犯人を捕まえようとしてます?」
「当然。……でないと、犯人はどんどん犬を襲うと思うし」
「あの……。一つ、訊いていいですか?」
 恐る恐る、香苗は手を挙げた。
「なんか今日の一条さんって、真剣すぎるっていうか、鬼気迫ってるっていうか、もしかして、犬に対して何か、思うところがあるんですか?」
 夕美でさえ訊くのを躊躇するようなことを、香苗は言ってのけた。すると、小夜子は、
「……中学生のころまで、犬を飼ってたの」
「そう、なんですか……」
「そうよ。だから、こういうことする人間が、許せないの」
 しん、と三人の間にだけ、音が消えた。
「食べたりないからちょっと追加注文してくる」
 言って、小夜子は唐突に立ち上がった。
「お前、まだ食うのかよ……」
「デザートだから別腹よ」
「どうせ、後でテイクアウトでさらに食べるくせにさ」
「え……。一条さんて、そんなに食べるんですか……?」

 小夜子が戻ってきた後、ダウジングによる犯人探しが開始された。
「それで? 地図の真ん中に据えて、目を瞑って、あとは何をするんだっけ?」
 五円玉を結びつけられた小夜子の髪の毛を持ち、夕美は準備を終えた。
「念じるんです。……というか、そうとしか聞いてないんですけど」
「いい加減な情報だな。……まあ、今に始まったことじゃないが」
 文句を言いながらも、夕美はそっと目を閉じた。
 夕美が何を考え、念じているのかは、小夜子と香苗には分からない。そもそも、ダウジング自体が成功するかもわからず、三人はしばし、沈黙の中で振り子が動くのを待った。
 ほどなくして、振り子の、五円玉がゆっくりと、動いた。
 音もなく、小さな円を描き始めたのである。
 その光景を目の当たりにして、小夜子と香苗が不思議に思ったことは、三つあった。
 一つは、五円硬貨の回転である。硬貨は円を描くように動いているのだが、硬貨それ自体は回転をしていなかった。ぴんと張られた小夜子の髪の毛はねじれたりなどせず、風のない店内でふらふらと、まるで自らの力で硬貨が円を描こうとしているかのようだった。
 次に、回転する方向もおかしかった。いや、これに気がついたのは香苗だけなのであるが、五円硬貨の振り子は左回転、つまり時計回りに動いていたのである。通常、北半球にある日本列島はコリオリの力が働き、台風や渦潮など、右回転がかかるはずなのである。
 だが、その二つの現象は、二人がいま目にしていることと比べると、実に些細なことにすぎなかった。と言うのも、初め、真円を描くように動いていた振り子は、次第に楕円を描くようになってきていたのである。それも、何かに引っ張られるように、徐々に円の大きさを広げていたのであった。そして、その楕円の先は、地図上西の、
「旧成上団地……!」
 香苗がそう言った瞬間、ふっ、と力が抜けたように、振り子が動かなくなった。夕美の集中が途切れたのである。
「どこだって?」
「工業地北の旧成上団地ですよ! 四つ目の首が見つかったところ!」
 
 旧成上団地。
 と、いうのは俗称で、正しくは成上工業団地である。
 成上駅の南の商業地区。その西側にある工業地区は、リーマンショック以来の不況の波に圧されつつあるとはいえ、だからと言って旧成上団地が廃墟同然となった根拠とするには乏しくある。旧成上団地が廃墟となった直接の原因は、おそらく噂のせいであろう。
 住居人が皆無であるこの地区に、小夜子たち三人はやってきた。もちろん、犬の頭部を切断し、晒すという、残忍なことを続けている犯人を見つけるためである。
「しっかし……。成上市にこんな場所があったなんて」
 言って、夕美は辺りを見回した。三人の眼前には、薄鼠色の雲に覆われた空と、巨大なコンクリの塊とも思える、白と灰のマンションの群れが、立ち並んでいる。ただ、そびえるどの建物からも、人の気配が感じられなかった。
 実に静かなものである。白服の老人を追っていた時に入った路地も静かであったが、閑静であるというより、不気味な静けさのある場所であった。
 とはいえ、荒廃して、いかにも何かが潜んでいそうな雰囲気のある場所、と言うわけでもない。見た所、マンションには割れた窓ガラスがあるわけでもなく、建物自体に大きなひびが入っているわけでもない。比較的、綺麗な外観をしていた。
 だからこそ、異様であった。一見すると、今まで自分たちがいた成上町と何ら変わらないというのに、その場の空気が、気配が、天候が、雰囲気が、全く違う世界にいるように思わせるのである。いつもの日常にいるようで、そうではないと思ってしまう心の『ズレ』に、三人は言い知れぬ不安感を覚えていた。
「ねえ、昨日って、雨降ったっけ?」
 唐突に、小夜子がそう言った。
「そう言えば、最近、雨なんて降ってないですよね。今日だって曇ってるだけですし」
 だというのに、道は雨が降った後のように濡れていた。
「それに、雨が降った後の匂いがしますね」
「雨の匂い? 雨に匂いなんてあるわけないじゃない」
「いや、雨の匂いって、あるよ」
 へえ? と小夜子は間抜けな声を出した。
「なに? お前、雨の匂い分からないのか?」
「分からないも何も、水なんだから匂いなんてないでしょ」
「甘いもんばっか食ってっから、甘い体臭がして匂いが分からないのかもな」
「なあんですってえ?」
 そうしてしばらく団地内を散策していると、小夜子が突然、立ち止った。
「……どうした?」
「……。……何か、聞こえない?」
 言われて、二人も立ち止って聞き耳を立てた。
「なにも聞こえないですよ?」
「聞こえるって、ほら」
 集中していると、確かに妙な音がする。人ではない、何か動物のいる気配である。音のする方には、マンションに囲まれた、小さな公園があった。
 何の音か、と公園に入った三人は、絶句した。
「な、なんて酷いことを!」
 静かな団地で、小夜子の絶叫が響いた。
 公園の、ちょうど真ん中の地面に、犬の首が生えていたのである。ただし、切断された犬の頭部ではない。生きた犬が、首から下を地面に埋められていたのである。
 しかも、犬の目の前に、無造作に食べ物を置いて、である。
 一体、どれほどの間、その状態で放置されていたのだろうか。
 一日か、三日か、一週間か。少なくとも、眼を血走らせ、泡のようになったよだれをだらだらとこぼしながら、半狂乱状態になっているところを見ると、おそらく餓死寸前に陥るまでの時間、放置されているのであろう。生き埋めにされている犬は抜け出すことよりも、眼前にある食べ物を口にしようとすることの方に必死になっていたのである。
「早く助けないと!」
 すぐさま、小夜子は犬の近くまでかけつけた。そして、興奮している犬を恐れることなく、小夜子は放置されていた得体の知れない食べ物ではなく、ファーストフード店で購入したチキンナゲットを食べさせた。もっとも、それだけで犬が落ち着きはしないが、その隙に犬を掘り出そうと考えていたのである。
「テイクアウトしててよかったな……。おい、小夜子。ここにスコップがあるぜ。犯人が置いてったんだろうな。これ使って掘り出すのは恐いが、ないよかマシだろ」
「すぐに助けよう! かなちゃん! 警察呼んで!」
「え? でも……」
 と、香苗は口ごもった。
「それだと、犯人には逃げられちゃいますよね? ここは、その子には悪いですけど、犯人が戻ってくるまでどっかで隠れてた方が得策じゃないですか?」
 香苗は、声色も、表情も、いたって冷静であった。
「幸い、この辺りのマンション、どれも人が住んでないわけですし、隠れるところはいくらでもありますよ。それに、これで犯人を逃しちゃうと、また新しい被害が――」
 決して、香苗は冷酷な人間ではない。これ以上、犠牲を増やさせはしないという、彼女なりの考えの上で、彼女にとっての最良の手を言ったまでであった。だが、それは、
「……次、わたしの言った通りにしなかったら、あなたをこの子の代わりに埋めるわよ」
 激情に駆られている小夜子にしてみれば、残酷極まりない発言であった。いまの彼女にとって最も大切なことは、目の前の命を守ること、ただそれのみなのである。
「……い、いちじょーさん、こわい」
「言いたいことは分からんでもないが、今のはお前が悪い。ま、あとは国家権力が何とかしてくれるだろ。人が滅多に来ないような場所だ。すぐに犯人も見つかるだろうさ」
 言いながら、夕美は犬の周りの土を掘り返した。
 そうして、あと少しで犬を助け出せそうだというところまで来たとき、ふと、夕美は違和感を覚えた。目の前の地面が、公園の土が、おかしいと感じたのである。見ると、ぽつりぽつりと間隔を開けて、数か所ほど色の違う地面があった。
「……ま、まさか」
 そして、公園全体を見渡した。公園には、全部で十の『何かを埋めた』跡があった。
 何を埋めた?
「まさか、これ、全部……」
 切断された、犬の胴体が、埋められているのであろう。
 そのことに気がついた三人は、しかしそれを確認する気にはなれなかった。
 ほどなくして、警察官が旧成上団地の公園に到着し、三人は警官に事情を説明することとなった。その後、香苗はこのまま犯人を捜そうと息巻いたが、ひどく落ち込んだ小夜子が体調を崩したため、その日の探索を終了せざるを得なくなった。

 翌日になって、テレビや新聞で一連の残酷な事件が、大々的に報じられた。
 後の調べによると、埋められていた犬の遺体はいずれも胃の中が空の状態だったそうである。餓死寸前、ないし、餓死してから首が切断されたということになる。おそらく、被害にあった犬たちも、小夜子たちが見た生き埋めにされていた犬と同様に、眼前の、届きそうで届かない位置に食べ物が置かれていたことであろう。
 その日も、その次の日も、さらに次の日も、犬の首が発見されたという話は聞かなかったが、それでも犯人は必ず、また犬の首をどこかの公園に晒すだろうと、香苗はそう睨んでいた。晒された犬の首は、全部で七つ。あの公園に埋められていた犬の胴体は十。行方不明の犬の首が、まだあと三つも存在するのである。

 七月四日、金曜日。
 ――さん……。
 ――いちじょ……さん……。
「一条さん?」
 呼ばれていることに気がついた小夜子は、声のする方を見た。
「……えっと」
 誰だっけ、この子?
 小夜子の目の前には、名前もわからなければ見覚えすらもない女子が、どこか心配そうな表情で自分の顔をうかがっていた。
「タナベです……。隣のクラスの……」
「そう、タナベさんだったわね。それで――」
「――そうです。今度、一緒に遊びに行かないかっていう話なんですけど」
「……遊びに? ……わたしと?」
 妙だ。と、小夜子は思った。おそらく初対面の相手で、しかもほとんど面識のない隣のクラスの人間から誘われたのである。疑わないわけがなかった。
「あの……。もしかして、以前、お会いしたことが……?」
「ええ、中学の時、一年だけクラス一緒だったことがあって。それで、前からお話ししてみたいなー、なんて思ってたんです」
 なおさら妙だ。と、小夜子は考えた。もし本当に中学の時の自分と面識があるというのならば、周りがそうしているように、極力かかわりを持たないようにするはずである。
「……まあ、いいや」
 とはいえ、今の小夜子は、それどころではなかった。
「いいですよ。いつにします?」
 成上市内の公園に、七つもの犬の首を晒した事件。小夜子にとって、今はあの残酷で、忌まわしい事件の犯人を見つけることの方が問題であった。
 教室に戻った小夜子は、すぐに夕美と香苗の姿を確認した。すると、二人は昼食もとらないで、何かを見ているようであった。
「なにしてるの?」
「あっ! 一条さん! 大変です!」
 と、香苗が周囲を気にもせず、大声を出した。
「は、犯人が、また犬の首を!」
「……。なんですって」
 香苗が手に持っていた新聞紙をひったくると、小夜子は記事を読んだ。
「地図出して」
 小夜子に言われずとも、香苗はすぐに地図を鞄からだし、夕美の机の上に広げた。
「お前ら、飯食ってからにしなよなあ」
 八つ目の首、成上町新興住宅地の公園。
 九つ目の首、西成上町の公園。
「犯人は今まで、成上市に円を描くように犬の首を置いてきました。なら、あとは南東にある稲穂坂町のどこかにおけば、円は完成しますね」
 見つかっていない首はあと一つ。そして、首が置かれていない場所はオフィス街だけである。と言うことは、犯人は必ず『稲穂坂』のいずれかの公園に首を晒すはずである。
「……だけど、ちょっと待ってください。……生き埋めにされていた犬を合わせると、犯人は全部で十一の首を置こうとしていたはずですよね?」
 と、香苗は地図上の印と印を結び、大きな円を成上市の上に描いた。
「見てください。首は、全部きれいに区画ごとに置かれているんです。成上町には四つ置かれましたけど、ここも大きな通りで区切れますし。……だとしたら、ですよ? 犯人は十一番目の首をどこに置こうとしてたんでしょうか?」
 犬の首が置かれていない場所と言えば、地図上の中央にある、南成上町だけである。
「だいたい、一体何の目的があってこんなことをしているんでしょうかね」
 目的。考えられることはいくつかあるが……。
「とにかく、犯人は必ずオフィス街に現れるはずよ。……いや、もしかしたらもう、首を置いてしまったかもしれないけど、その確認もあわせて、今日はオフィス街に行こう」
「ああ、悪い。あたしはパスな」
 ぐいと拳を掲げたというのに、そうする小夜子の隣で、夕美が言った。
「えっ? どうして?」
「いや、ほら。あたし今日は定期健診だって言ってたじゃん」
 あっ。そっか。
「そういえば、そうだったわね」
「……定期健診って、なんの健診なんです?」
「お前は、ほんっと、ずかずかと首を突っ込むよな。さすが新聞部だよ」
「で、……なんの健診です?」
「ただの健康診断だよ。あたしは生まれつき体が弱いの」
「口も悪いですけどね」
「なんだと? ……まあ、とにかくそう言うことだから。……朝村よ。くれぐれもこいつが、……小夜子が無茶をしないようにみておけよ?」
「え……? は、はあ……。分かりました」

 稲穂坂町。
 成上駅南東にある、いわゆるオフィス街である。
 この場所は、昔は田園の広がる美しい景色があったそうだが、今はその影もなく、背の高い無機質なビルの立ち並ぶ街となっている。高速道路入り口が近いこともあってか、自動車の交通量が非常に多く、しかし同時に、歩行者数が妙に少ない地域でもある。
 学校の帰りに、小夜子と香苗はまっすぐ稲穂坂へと向かった。犬の頭部を切断した犯人を捜すため。犬の首を成上市中に晒した犯人を捜すために、である。
 稲穂坂に到着した二人は、さて、と地図を確認した。
「学校でも言いましたけど、稲穂坂の中にある公園らしい公園っていったら、三四か所ありますよ。まあ、線路沿いにある小さな公園とか、犯人が描こうとしてる『円』から少しずれてる除外していいかと思いますが」
「ふむ……。後は、警察署とか、他の発見現場に近いところも除外していいかもね」
「そうなると、あとは二か所になりますね」
「大通り近くの二か所……。ちょっと離れてるわね」
「じゃあ、二手に分かれて連絡を取り合うってどうです?」
「……それ、危なくない? 私はともかく、かなちゃんが」
「大丈夫ですよ。これでも伊達に新聞部部員やってないんで」
「そう……。分かったわ。それじゃあ、念のために言っておくけど、香水臭い人とか、あとはズボンの裾や靴が汚れている人がいたら注意してね」
 はて、と香苗は首をかしげた。
「なんでです?」
「ある程度、腐らないようにはしているでしょうけど、四日も経ってるのよ? この暑い中で、『臭わない』わけがないわ。それと、よごれのことだけど。旧成上団地の公園って、雨が降った後だったから濡れてたでしょ? あんなところで穴掘りして汚れないわけがないし、何より、ここ最近、雨が降ったのってあそこだけなのよね」
 これまでの小夜子の様子からして、激情に駆られているかと香苗は思っていたが、小夜子は実に冷静であった。いや、冷静であろうとしているだけなのかもしれない。
 ともかくとして、香苗は小夜子と別行動をとり、大通り北の、小さな公園を目指した。
 目的の公園は、歩いて五分ほどの場所である。街中の、使われているかどうかも怪しいような遊具が数個ある、ちょっとした公園である。
 公園が見えてくると、香苗は敷地にないには入らずに、そのまま一度、素通りした。そして、公園周辺を一瞥しながら、並ぶ建物のうちの一つに注目した。
 オートロック式ではない、少し古めのアパートである。香苗はアパートに入ると、公園を見渡せる位置まで階段を登り、小夜子にメールを送った。
『公園につきました。首はまだ置かれてないです。怪しい人もいません』
『こちらも同じく。何かあったらすぐに報告するように』
 ふうむ、と香苗は一息ついた。
 さて、張り込みを始めたが、これが無駄足に終わらなければいいが……。
 香苗はそう考えながら、アパートの階段に身をひそめて、公園を監視し続けた。
 と、いくらか時間が経った後、香苗の頭の中に、ふと、一つのことが浮かんだ。
 ……トイレ、……行きたい。
 ちら、と香苗は時計を見た。張り込んでから三十分以上経過している。
 次に公園を覗いたが、やはり怪しい人影は現れていない。
 今はこの場所を離れるわけには……。でも、いつ来るか分からないし、それらしい人が来てからだともう行けないし……。かといって、見逃すのも……。でも、三十分も待ってるのに誰も来てないんだから、今日はもう誰も来ないよ……。いやだけど……。
 ぐにゃぐにゃと、香苗の頭の中で考えと考えが邪魔をしあい、次第に香苗はだらだらと汗を流すようになり始めた。既に限界が近かったのである。
 必死に悩んだ末、香苗は公園にある、男女兼用の公衆トイレに入ることにした。

 香苗は個室から出て、洗面台で手を洗った。
 ハンカチで手を拭き、そうしてトイレから出ようとした瞬間であった。
「あっ。すいません」
 入れ違いでトイレに入ろうとした人と、ぶつかってしまった。
「いえ、こちらこそ」
 ぶつかった相手は、男性であった。香苗よりもずいぶんと背の高い男である。
 うわっ……。この人、香水くさ……。
 強烈な匂いであった。香苗は思わず、視線を下に反らした。
 靴が、乾いた泥で汚れてる……。
 香苗は、そのまま振り返らず、先ほど見た男の姿を思い返した。男は、ダイヤルロック式のスーツケースを手に持っていた。しかし、服装はとても社会人には見えなかった。
 何を、そんなに大層なケースで持ち運んでいる? 何を見られたら困る?
 さあ、と全身から血の気が引くのを、香苗はまざまざと感じた。犯人を見つけたという焦りと、犬殺しの犯人が目の前にいたという恐怖で、頭が真っ白になったのである。
 とはいえ、香苗が怖気づいたのは、ほんの数瞬のことであった。いや、依然として緊張していることには変わりないのだが、緊張ゆえに、犯人を追わねばという使命感が、香苗の背中をぐいと押していたのであった。
 アパートに戻らず、香苗は路地の暗がりに身をひそめた。そして、鞄から鏡を取り出すと、鏡の反射を使って公園の、スーツケースを持った男の様子を確認した。
 そうして香苗は、男がスーツケースの中から、犬の首を取り出すのを見てしまった。
『はんにんはっけん。すぐきて』
 香苗は小夜子にメールを送った。
 と、男が公園から出て移動を開始した。
『公園から二丁目のほうにむかってます。早くきて』
 携帯電話をしまい、香苗も男の尾行を始めた。と、同時に、香苗は心底に不安になった。いくら、こうして小夜子と連絡を取り合っているとはいえ、そのせいで、余計に独りで行動しているということを実感したのである。
 警察に連絡をして助けを呼びたい。小夜子はいつ到着する?
 男が路地から大通りへと出た。稲穂坂の、特に大通りは人の数が皆無である。ともすれば、制服を着た状態での下手な尾行では、気づかれかねない。
 ほどなくして、小夜子が香苗に追いついた。
「どの人?」
「あそこの、ほら。スーツケース持ってる人です」
 香苗が男を指差すと、男はちょうど狭い路地に入り込むところであった。この辺り、いや、成上市街地はどこも、急速に発展した名残からか、路地が複雑に入り組んでいる。先ほどの公園のある場所のように開けているのならまだしも、追っている途中で道に迷いかねないような路地に入られては、最悪の場合、逃げられてしまう可能性が大きい。
 二人は慌てて男を追って、路地に入った。
 すると、狭く薄暗い路地裏を全力で駆ける男の後ろ姿が、香苗の瞳に入り込んだ。すでに、二人の尾行は気づかれていたのである。いや、それだけではない。
「あっ」
 という声と共に、香苗の体が固まった。
 男は今まさに、路地の突き当りを曲がろうというところであった。その光景を見て、香苗は焦ったのである。このままあの男を逃してしまうと、頭のどこかでそう考えてしまっていた。だからこそ、香苗は声をあげずにはいられなかったのであった。
 だが、隣にいる小夜子はそうではなかった。路地の突き当りを右に曲がり、姿をくらまそうとする男。その男の眼前に、彼女は立ちはだかったのである。
 ほんの、数瞬の出来事であった。路地の入口から男のいる突き当りまでの距離は、十数メートルほど。その距離を、小夜子は一呼吸の内に『移動』したのである。
 一体どうやって?
 逃げていた男はおろか、隣にいた香苗すら、その瞬間を見ていなかった。
 誰も見てなどいなかったが、今、彼女は男の眼前にいる。それも、突き当りの建物の壁に『着地』していたのである。まるで、重力が彼女の足元で発生しているかのように、建物の壁にしゃがむように両足をついて、男の逃げ道を塞いでいたのである。
 びう、と空気を斬る音がした。
 壁から離れた小夜子が、空中で回し蹴りを繰り出し、男をしとめようとしたのである。
 だが、小夜子の蹴りは空を斬るだけであった。
 かわされたっ! と、小夜子はそう考えた。彼女にしてみれば、確実に捉えたはずだというのに、自分の蹴りが空振りに終わったのである。
 しかし、離れた位置にいた香苗には分かっていた。男は尻餅をついていた。小夜子が壁に『着地』したときから、男は体勢を崩していた。単純に驚いたのであろう。
 ともかくとして、二人はついに、犬の首を晒してきた男を、追い詰めたのであった。
「さて、あとは警察の到着を待つだけですね」
 香苗の言葉は、果たして小夜子に聞こえただろうか。
 小夜子は足元にいる男の胸ぐらを掴むと、ぐいと強引に引き上げた。
「なんでやったの?」
 丁寧な口調、優しい声色で言いながらも、小夜子のその瞳は、その表情は、夏場の空気を凍てつかせるほどに冷たかった。
「……なんのことか、わからんな」
 無精ひげと、目の下の深いクマの目立つ男は、気味の悪い笑みを浮かべた。
「なんで犬を、こ、ろ、し、た、の?」
 小夜子はさらに男を締め上げた。
「ちょっ、ちょっと! 一条さん! 何して――」
「――全部で十頭の犬を殺して、その首を市内中に晒して、あなた、何がしたいの?」
 香苗の言葉に耳を貸さず、小夜子は男に質問を重ねた。
「ぐう……、く、く、く……。何でか? 知りたいか?」
 緊張のあまり動けなくなっている香苗だけでなく、小夜子もごくりと固唾を飲んだ。
「お前らは、この地方に古くからある伝承を知ってるか……?」
 と、男の口から、妙な言葉が飛び出た。
「この土地に根付いている風習を、この都市で噂されている伝説を、知っているか?」
「……なんの話をしているの?」
 ぐん、と小夜子は両手でさらに男を持ち上げた。一体、その細い腕のどこにそれだけの筋力があるというのか、男の足が、僅かながらも浮いた。
「ぐうえ……。す、数年前から……! 何人もの人間が妙な死に方してるだろ……!」
 男の言葉に、香苗は反応した。
「変だと思ったんだ……! ただでさえ、死に方が異常だってのに、ぐふっ……、全国的に見ても成上市はやたらと変死率が高い……! だってのによお……! この都市の人間は……! ほとんどの人間は……! そのことを気にも留めないんだ……!」
「……それで?」
「それで、調べたんだよ……! この街、成上のことをよお……! そしたらな……、ははっは……! 見つけたんだ……! 『人を呪う方法』を……!」
 ぴくっ……、と小夜子の目元が引きつったのを、香苗は見逃さなかった。
「知ってるか……? 犬を使う呪術を……? きっと、全員それで死んだんだよ……!」
 ぴくくっ……、と小夜子の目元が、再びひきつった。
「これは実験だ! 本当に呪術で人を殺せるのかどうかってな! それで、オレはオレの気に入らない人間を皆殺しにしてやるんだよ! どうせ、呪術なら捕まらないだろ!」
「……そんなことのために」
 小夜子の眼の色が変わった。夜空色の美しい宝石が、酷く濁った。
「そんなことのために、十頭も犬を殺したの?」
「はっは……! 十? 十だと? 正確には十一匹だね! そこのスーツケースの中に、もう一個あるんだよ……! 首がよお……! お前らが邪魔したせいで……! もう一匹用意するはめになったぞ……! ははははは!」
 小夜子が、男から両の手を離した。
 と、男の足が地につくよりも速く、今度は男の首を鷲掴みにし、持ち上げた。それも驚くべきことに、小夜子は片手で、先ほどよりもずっと高く、男を持ち上げたのである。
「警察に引き渡すつもりだったけど……。気が変わったわ……」
 ぎり、と小夜子の指が、男の首に食い込んだ。
「このまま『くびり』殺してやる……」
 この光景を目の当たりにして、香苗は悲鳴をあげそうになりながらも、同時にあることを思い出した。柳瀬夕美の言った言葉である。
『小夜子が無茶をしないようにみておけよ?』
 まさか、彼女が言っていたの、こういうことだったのではないか?
 次の瞬間には、止めなければ、という考えで香苗の脳内は埋まっていた。
 ところが、香苗が止めに入るまでもなく、小夜子は男から手を離した。男は再びその場に尻もちをついたのだが、しかし、なぜか小夜子は硬直したままであった。
 その理由を分かっていただけに、香苗は息を飲んだ。
 男が、腰に隠していたナイフで、小夜子の胸元を深々と突き刺したのである。
 小夜子はしばしの間、何が起きたのかと自分の体を確認していた。
 そうして小夜子が硬直していた隙に、男はさっと立ち上がり、小夜子の胸元に突き立てたナイフの柄を掴むと、引き抜いた。そして、
「一条さん!」
 銀の線が一筋、小夜子の目の前で走り、彼女の首が、ぱくりと開いた。
 鮮血が、ぴしゃりと男の顔にかかった。
 小夜子は首を手で押さえながら、その場にしゃがみこんだ。小夜子の生死など関係ないと言わんばかりに、男は小夜子の脇を通ると、路地の奥へと走って行った。
 男が走り出したのと同時に、香苗も走った。必死に走り、一瞬、ちらと男の逃げた路地を見たが、今は男のことよりも小夜子だ、と彼女の傍でしゃがんだ。
「一条さん! ど、ど、どうしよう! まずは、救急車をよんで! それから――」
 目に涙を浮かべながら、香苗はポケットから携帯を取り出した。とはいえ、気が動転している彼女は、ろくに番号も押せず、あたふたと慌てるばかりであった。
 慌てる香苗とは対照的に、小夜子は実に冷静であった。
「かなちゃん。大丈夫。大丈夫だから」
 首を押さえながらも、小夜子は優しい口調で、なだめるように言った。そして、小夜子はゆっくりと、首から手をどけた。血の跡はあれど、彼女の首から傷がなくなっていた。治ったというより、初めから斬られてなどいない状態であった。
 見えてはいないが、胸の傷も同様である。
「ほ、ほんとに、大丈夫なんですか?」
「大丈夫よ。わたしがいま一番心配しているのは、血だらけで穴の開いたシャツを、親にどう説明すればいいかってことぐらいだもの」
「そ、そうですか……」
 いつか、似たような光景を見た。と、香苗は夜の学校探検のことを思い出していた。
「え、っと……。それじゃあ、このまま犯人を追いに行きましょうか」
「いいえ。あの男のことは、もういいわ」
 すくと立ち上がる小夜子を、香苗は間抜け面でしばらく眺めた。
「……どういうことですか? もういいって、どういうことです?」
「追わなくていいわ。今日はもう帰るわよ」
「ちょっと待ってくださいよ! ちゃんと説明してください!」
 交通音が、どこか遠くに聞こえる静かな路地で、香苗の怒鳴り声が反響した。
「この事件に、あれだけ固執してたのに、どうして急にそんな……。だいたい、その傷のことだって、どういうことなんです? どう考えても普通じゃないですよ!」
「……」
 絶叫する香苗に睨まれながらも、小夜子は何も言わなかった。怒りもせず、悲しそうにもしないで、ただ黙って香苗の言葉を聞いていた。
 そうする小夜子を見て、香苗は自分がいかに酷いことを言ったか、それに気づいた。
「あ、あの……。ごめんなさい。私、みんなが噂している意味で言ったんじゃなくて」
「……噂って、なんのこと?」
 香苗は、再び失言をしてしまったと、反省した。
「まあ、いいけどね。誰がなんて言ってようと。わたしには関係ないもの」
「本当にごめんなさい……。でも、ちゃんと説明してくれないと、やっぱり不安だし、心配です。だって……、私、二度も一条さんが死にかけたとこを見てるんですよ?」
 言われて、ふむ、と小夜子は考え込んだ。
「……追わなくていいって言ったのは、その必要性がなくなったからよ」
 ややあって、小夜子はそう言った。
「どういうことです?」
「人を呪い殺すということは、ね? それ相応のリスクと代償を負うことでもあるの。人一人を呪うなら、一人分のリスクを。大勢を呪うなら、その人数分の代償を」
「もしかして、それって『呪い返し』のことを言っているんですか?」
「ええ、そうよ。『人を呪わば穴二つ』ってね」
 元々、呪詛と言うものは成功しようとしまいと、儀式を行った時点で術者にも呪いがかかるものである。返ってくる呪いで術者自身が死にかねないからこそ、相手と自分、二つの穴を用意する必要があるという言葉である。
「それに、あの男の人は他人に儀式を見られたのよ? さて、どうなるのかしらね……」

 七月七日、月曜日。
「一条さん、一条さん」
 香苗が呼び止めると、一条小夜子はくるりと振り返った。
 いつもの小夜子である。少なくとも、犬の首事件の時のような、威圧感のある小夜子ではなく、美人で、優しい雰囲気の小夜子であった。
「あの、……この間の、その、犬の首事件の犯人が、どうなったか聞きました?」
「……いいえ。聞いていないわ」
 ごくり、と香苗はつばを飲み込んだ。言うべきか、言わないべきか、ここにきて悩んだのである。だが、香苗は意を決して、小夜子に全て伝えることにした。
「あの犯人、死んだんです……。電車にはねられて……。それも、ただ撥ねられたんじゃないんです。犯人の体は、ばらばらになったらしくて、それで、その……、首だけが、近くの公園まで飛んでったらしいんですよ。犯人が置いた犬たちのように」
「……」
「それと、もう一つ。首を見た人の話だと、犯人の表情は、異様な顔をしていたとか。人間にできる顔をしていなかったんだそうです……」
「そう……」
 と、小夜子は短く答えた。
「……一条さん。もしかして、何かしました?」
「わたしは、何もしないよ。……ただ」
「ただ……?」
「あの男は今頃、死ぬよりも辛い目に会ってるだろうね」






今回は前回とは違い、書下ろしのシナリオです。
元々、前後編構成を予定していた内容なだけあって、
ページ数も作中の経過時間も長いです。
(ちょうど私のWordの設定上だと10ページずつだし)

ただ、今後の展開を考えると外すわけにはいかない内容なので、一つにまとめてでも入れました。
おかげで一日投稿が遅れたよ!

それにしても、小夜ちゃん、完全に戦闘担当になってしまったな……
その割に勝率悪いし……(;^ω^)

そう言えば、近ごろは人面犬って本当に聞かなくなりましたね
映画『学校の怪談』に出てくる「見てんじゃねえよ」の人面犬が恋しい

おまけと言うわけではないですが、舞台となる成上市の地図の一部を載せます。
大体こんな感じだよっていうのが分かればそれでいいです。

成上村地図 - 犬の首用
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