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赤毛の姫君 ~その六 吉岡重蔵

あらすじ

刀鍛冶、槌田鉄心は、彼の人生の中でも最高の一振り、天下一品の刀を重蔵に渡した。
鉄心から刀を受け取った重蔵は、天下一の武者になるべく旅に出ようとしていた。
街を出る前に最後の酒を飲もうと酒場で娼婦と遊んでいた重蔵の下に、一人の剣士が現れた。
その六 吉岡重蔵
 
「おっ? ジューゾウさん、何かいいことでもあったのかい?」
 酒場の店主にそう言われるまで、吉岡重蔵は自分がにやけ面をしていることに気がつかなかった。
「まあ、それなりにな。……いつものテーブルに、いつもの酒とつまみを用意してくれ」
「はいよ」
 重蔵はここでしか飲めない特産の酒と、同じく特産名物の食べ物をいくつか注文すると、酒場の隅にあるテーブルへと向かった。
 無精ひげをあごに生やし、総髪にまとめた長い黒髪をゆらしているこの男は、それだけで注目の的となる。それだけでなく、実に変わった服装をしているた。女のはくスカートにも似た、長く黒い穿き物に、一見どうやって着ているのか分かりにくい上着。そして、藁で作ったサンダルに似た履物をしているのだ。
 とはいえ、ことこの店に関して言えば、そんな妙な格好をした男の姿も、もはや見慣れた光景と言わんばかりに、大して視線は向けられていない。
 しかし、その重蔵の姿を見るや否や、彼のもとに駆け寄った女がいた。
「ジューゾウさ~ん。今日も私の話を聞いてくれる~?」
 濃い化粧に派手な格好をした娼婦であった。すでに酔っているのか、ふらふらと近づき、重蔵の隣に座ってきた。
「いやだね。どうせお前の話は長くなるんだ。断らせてもらう」
「そうよぅ。ジューゾウさんは私とお話するのよ」
 と、いつの間にか重蔵の隣に座っている別の娼婦が、同じように頬を高揚とさせながら言った。
「はっはっはっ! ジューゾウさん、あんたも大変だな」
 酒を持ってきた店員が、そんな重蔵の姿を見て笑っていた。
「やかましい。やれやれ、これじゃあ落ち着いて飲めやしないな」
 そう言いながら重蔵は、渡された陶器性で大きめの容器に並々とそそがれた酒を、一気に胃の中に流し込んだ。
「おい、もう一杯持ってこい。それからこの二人にも同じ酒を持ってきてやれ」
 酒を空にした重蔵は、容器を店員に差し出した。
「そういうと思いまして、用意してありますよ」
 と、店員は同じ容器にそそがれている同じ酒を三つテーブルに並べた。
「今日はおごってくれるの?」
「今日はおごってやるよ」
「あら? ジューゾウさん、何かいいことがあったの?」
「そうだな、今日はいいことがあったな」
 重蔵は、今でこそエルヴィアと言う国にいるのだが、元はエルヴィアにとっての敵国にあたるルーク国にいた。
 ルーク国では、剣の腕が特別立つ者に『剣士』の称号が与えられるのだが、重蔵はその称号を国王から授かり、国王直属の戦士としてルークのために戦っていたのだ。
 しかし、ルークの国王であるガロンには問題があった。ガロンは歴代の王の中でも最も欲が強く、己の私腹を肥やすために民衆を虐げてきていた。
 そうしたガロンのために戦うことに虚しさを感じていた重蔵は、自然とルークから離れようと考えてしまった。もともと日ノ本と呼ばれる国からきた彼にとって、ガロンに忠義を立てる理由も必要性もなく、ルークの剣士を辞める決心は思いのほか簡単についたのだ。
 ルークを出た重蔵は、まず同じ日ノ本から来た刀鍛冶を探した。刀を持っていないわけではないが、もうずいぶんと使い込んできただけに、刃こぼれが酷くなっていたからだ。
 しかし、そもそも日ノ本から来た人間の人口というものはないに等しく、その中から鍛冶師を探すことは困難なことであった。
 とはいえ、重蔵は刀匠を見つけた。ルーク国内では見つからず、周辺諸国を渡り歩いても見つからず、エルヴィアにきてやっとの思いで見つけたのだ。それだけでなく、見つけただけでも運がいいと言うものなのだが、その刀匠が驚くほど腕の立つ男であっただけに、重蔵は苦労をした甲斐があったと、自然と笑みを溢していた。
 
 娼婦達の愚痴に付き合いながら酒を飲んでいた重蔵は、ふと、酒場の出入り口に目を向けた。
 重蔵のいるこのテーブルは、出入り口から最も遠く、しかし店全体の様子を見ることのできる、絶好の場所である。
 何杯目かの酒を口に運ぼうとしていた重蔵は、しかしそこから見える出入り口から入ってきた者の姿を見て、一度ぴたりと動きを止めた。
 羽織っているローブについたフードを、顔が見えないほど深々とかぶった人間が、きょろきょろと店内を見回しているのだ。重蔵が気になったのは、ローブの下である。彼はローブの人間が武器を隠し持っていることを見破ったのだ。
 ローブの人間は重蔵の姿を見つけると、わき目も振らずにまっすぐ近づいてきた。
 娼婦たちが不審そうにその者を見ている。いや、彼女たちだけでなく、重蔵も警戒していた。
「ジュウゾウ殿とお見受けしたが、いかに」
 重蔵の目の前まで来たそのローブをかぶった者は、そういった。
 若い女の声であった。そかし、重蔵に纏わりついている二人の娼婦のように作っている声ではないようであるし、なによりも、凛として透き通った、美しい声であった。
「いかにも、俺は重蔵、吉岡重蔵だ。それで、一体なんの用できたんだ?」
 すると、フードをかぶったこの女は、何を気にしているのか、一度周囲を見回し、それから二人の娼婦に目をやった。
「人払いか、場所の移動をお願いしたいのだが」
「断る。見ての通り俺は今、酒を飲んでいるのだ。人払い? 場所の移動? 今、ここで、話せばいいだろう。人目をはばかるような話だとか、酒がまずくなるような話はしたくないね」
 と、重蔵はつまみを口の中に放り込んだ後に、酒をぐいと飲みこんだ。
「それに、俺は酒を飲んでいないやつと話をする気はない」
 重蔵がきっぱりと断ると、フードの女は何か考え込むように黙り込んだ。あくまで高圧的に出る重蔵の態度に怒りを覚えたのか、それから彼女は自分の顔を隠しているフードをとった。
 フードの女は、長い栗毛に、真珠のような美しい肌を持つ、気が強そうであるが品格のある整った顔立ちの美女だった。その女は、小難しそうな顔をしているのだが、その表情がまた凛としていて美しい。
 重蔵はそんな女の様子を見ていたのだが、彼女は重蔵の正面の椅子に座り、何を考えたのかテーブルにあった酒を一杯、ぐびぐびと音を立てながら飲み始めた。
「あん、あたしのお酒」
「お前は黙ってろ」
 女の口の端から酒が少しこぼれた。口調、立ち振る舞い、そしてその容姿からして、明らかに高貴な身分であろうこの女が下品に酒む姿を、三人はしばらく眺めた。
 女は、酒を一気に飲み干すと、どっと大きな音を立てて、容器をテーブル叩きつけるように置いた。
 それから彼女はうっと小さく嗚咽を漏らした。
「どうだい、ここの酒は。かなりきくだろう?」
「……」
 女は答えなかった。代わりに彼女の頬が、わずかに桜色に染まって返事した。と同時に、それは彼女が酒に強くないということを示していた。
「俺の祖国の物ほどじゃないにせよ、なかなか強い酒だ。それを酒に弱いというのに一気に飲み干すとは、見上げた女だな」
 と、重蔵は素直に感心した。同時に、そこまでするこの女に、わずかばかり興味を抱いたのだ。
「……話を聞いてくれるか?」
「そうだな。とりあえずは聞いてやろう。お前たち、悪いが今日のところは帰ってくれ」
 しばらく娼婦たちは文句を言っていたが、重蔵が懐から酒代用の金を取り出したため、しぶしぶ言うことをきいてその場を後にした。
「かたじけない……」
「なあに。……それで、俺に話ってのはなんだ」
 女は重蔵の目をきっと見据えた。
「単刀直入に言おう。今この国にガロンの一人娘、リンド姫が来ている。あなたに姫の護衛と、アルフレッドの暗殺を頼みたい」
「……ほう」
 重蔵はつまみを食べながら話を聞いた。
「しかし、なんでまた、敵国になんか来たんだ」
「それはもちろん、ガロン王の仇を取るためだ」
「はあ……、ガロンのねえ……」
「すでに護衛の剣士も二人殺された。今、姫はアルフレッドのいるハイリットへと向かっている途中だ。このまま刺し違えてでもアルフレッドを討ち取るつもりでいる」
「……それにしても思い切った行動に出たな。大体、ハイリット城に潜入すること自体、そう簡単にいくものでもないだろ」
「だからあなたの力を借りたいのだ。あなたは元ルークの剣士で、歴代の剣士の中でも最も強かったと聞いている」
「いや、別に俺の力を借りなくとも、他の剣士がいるだろうよ。たとえば俺の後釜をやっているアランとか」
「死んだよ」
「アランがか?」
「そうだ」
 それを聞いた重蔵は、しかしにわかに彼女の言葉を信じられなかった。
アランといえば、重蔵の後ろをよくついてきていた若い少年のことだ。いや、重蔵がルークから離れるまで少年だったのだから、今では青年のはずだが、なんにせよ重蔵はそのアランに自分の戦闘法を教えていたのだ。それだけに、重蔵はアランの殺すことのできる相手がいることに驚いた。
「そうか……」
「それからゴルド、シルト、合わせて三人の剣士が殺された。今残っているのは二人だけだ」
「……敵はそんなに強いのか?」
 残りの二人の名前も、聞いたことのある名前であった。ルークにいた頃は、期待の新星としてもてはやされていた二人だ。少なくとも剣士の称号を得られたほどなのだから、彼らを殺害しうる人間はそうはいないはずである。
「アルフレッドは六賢老なる魔法使いを刺客に放った。三人はその魔法使いに殺されたのだのだ」
「……ほう」
「だから、もうあなたの力にすがる他ないのだ。頼む、力を貸してくれ」
「と、言われてもなあ。さすがに自分から死地に向かうほど俺は馬鹿じゃない。そういうわけで他を当たってくれ」
 重蔵の言うことも尤もであった。女の言っていることは勝てるかも分からない大勝負に出て、死んでくれと言っているようなものだからである。
「頼む、ジュウゾウ殿。あなたとて元はルークの剣士だろう?」
「元ルークの剣士だからこそ、だな。そもそも、俺はガロンに義理立てをする気はさらさらない」
「……そうか」
 と、女はうつむきながらその顔を絶望の色に染めた。相当、重蔵が戦ってくれることを期待していたのだろう。
 しかし、重蔵はこの女の話を聞いて、解せない点がいくつかあることに違和感を覚えていた。
「いくつか聞いてもいいか」
「……? ああ、なんだ?」
 神妙な顔をしている重蔵の顔を見上げ、女は不思議そうな顔をした。
「さっき姫はハイリットに向かっていると言ったな。てことは、少なくともお前だけは逃げようと思えば逃げられるはずだろ?」
「……」
「確か北にあるエルンって街に行けば、空船に乗れたはずだ。ここからならそう遠くはないだろう」
「馬鹿を言うな。私はここまで共に戦ってきた仲間を見捨てる気はないし、何よりアルフレッドを討ち、王の屈辱を晴らさなければならない」
「俺が一番聞きたいのはそこだ。お前はなぜガロンの仇を取ろうとするんだよ。言っちゃ悪いが、あの業突く張りのために戦って得することなんざ、ひとつもないだろ」
「王を侮辱するきか?」
「本当のことを言ったまでさ。先の戦の敗因もそれが原因だろ。自分の私利私欲しか考えていないから、味方に裏切られるんだよ」
 それだけは許さないぞと言わんばかりに、女が重蔵を睨んだが、重蔵はかまわず続けた。
「それに、ルーク復興を狙うなら、恥を忍んで一度アルフレッドに下ったほうがいいだろ。アルフレッドのもとで時間をかけ、ゆっくりと機会を窺えばいい。違うか?」
「それは……、そうかもしれないが……」
 重蔵から見て、リンド姫たちは、いや少なくともこの女はガロンの仇を討つことに固執しているように思えた。本当にリンド姫のことや国のことを考えているのであれば、他国に亡命するか、アルフレッドに下るほかないはずだというのに、だ。
「それでも、私は王のために戦いたい。王の傍にいた人間として、それが私にできることのはずだ」
「……ほう」
 おそらく理屈ではないのだろうな、と重蔵は彼女のまっすぐな瞳を見つめながら考えた。気持ちのいいほど芯が強く、愚直なまでに素直な女だ。重蔵はそういう人間は嫌いではなく、むしろ好感を覚える質の人間であった。
「……分かった。手を貸してやろう」
「え?」
「アルフレッドの首を取ってやると言っている」
「本当か?」
「ああ、ただし条件がある」
「なんなりと言ってくれ。私達に用意できる物の範疇で応えよう」
 まるで、その言葉を待っていたかのように、聞いた重蔵はにやりと笑った。
「あんたの名前は何だ?」
「わ、私は……」
 と、女はなぜか戸惑い、目を泳がせた。
「……エレナだ。『知略の剣士』のエレナ」
「ほう、エレナか」
「それで、条件と言うのはなんだ?」
「うむ、俺はあんたのことが気に入ったよ。アルフレッドを討ち取った暁には、エレナ、お前、俺の女になれ」
「……」
 エレナは、まさか重蔵がそのようなことを言うとは思っていなかったため、驚きのあまり絶句した。
「え? なんで?」
 と、彼女が言うのも無理もないだろう。
「あんたほど一人の王を、それもあのガロンをまっすぐ信じきっている者なんてのは、そうそういるものでもない。俺はあんたの王に対する忠義心、それに惚れたよ」
 実際、重蔵がルークを離れるまでの情勢で言えば、そもそもガロン王が自分以外の誰も信用していなかったため、当然のことながら王自身、誰からも信用されていなかった。
 それだけに、エレナの誠実さは輝いて見え、重蔵はそうした彼女の心に惹かれたのだった。
「だ、だけど、それは困る」
 エレナはしどろもどろで答えた。
「なんだ? 旦那でもいるのか?」
「いや、そういうわけではないのだが……」
「ならいいだろ」
「その、私の身体は私だけのものではなくてだな」
「どういう意味だ?」
「とにかく、私はあなたの女にはなれない」
 エレナの頬が桜色に染まっているのは、何も酒のせいではないだろう、と重蔵は見た。
「なら、アルフレッドのことはどうするんだ?」
「そ、そうだ。金ならいくらでも用意できる」
「いらねえよ。ルークの剣士だった頃のが大分あるから、しばらくは職がなくても暮らしていける」
「私以外の女なら、何とか用意できると思う」
「俺がその程度のものを報酬として望むような、浅ましい人間だとでも思っているのか?」
「うっ、すまない」
「それで、どうするんだ」
 生娘なのか、あるいは単に男女関係というものに恥じらいを感じているだけなのか、エレナからは何もいえないのであろうと分かっていても、重蔵はエレナに答えを迫った。
 そういうと、ううむとエレナはしばらく唸り、何を考えたのか、テーブルにある酒を手に取り、再び一気に飲み干した。
 
 重蔵は、再び酒場の入り口に目を向けた。
「やれやれ、今日は用事が多い日だな」
 入り口には、だるまのように丸々と太った大柄の男が一人、立っていた。
 男は人の良さそうな、優しい笑顔をしており、ひょろひょろとしたなまず髭をいじりながら、店内を見回している。と、男がこちらに視線を向けると、のっしのっしと近づいてきた。
「ほっ! 見つけたぞ『知略の剣士』よ!」
 と、男は声を張り上げて言った。
 同時に、この奇怪な男の声によって、店内は騒然としだした。
「六賢老か!」
 エレナが叫んだ。
「いかにも、ワシは六賢老が一人、『重力のグラフ』である!」
 にこやかな笑顔とは裏腹に、この男は強烈な殺気を重蔵とエレナに向けていた。
「そこの男! お主は『曲刀の剣士』だの!」
 びしっとグラフは手に持っている杖の先端を、重蔵へと向けた。
「元、だがな。何か用かな、魔法使い」
 重蔵は挑発的な口調でそう返した。
「ほっ! 女をこちらに渡せば、命だけは助けてやろう!」
「……ほう。渡した後この女をどうするつもりかな」
「ほっ! それはお主に関係のないこと!」
 二歩、三歩と、グラフは二人に近づいてくる。
「酔いは覚めたか、エレナ?」
「あなたのおかげで世界が回っているよ」
 訊いたものの、重蔵は端からエレナに戦わせる気がなく、立ち上がって刀を腰に帯びた。
 エレナも剣を鞘から抜き、構えた。
 重蔵は何も言わず、エレナの前に出た。しかし、抜刀していないままである。
とはいえ、重蔵の覇気も凄まじく、それだけでグラフは一瞬たじろいだ。
 そして、重蔵もゆっくりとグラフに近づいた。まるで鬼と対峙しているようだ、と重蔵の気迫に圧し負けたグラフは、すぐさま左の手の平を差し出した。
「ほっ! 恐ろしい男だの! ぬうん!」
 そして、左手で空を掴み、と同時に杖をどっと石造りの床に力強く突き立てた。
 瞬間、重蔵の身体に違和を感じ、膝をついてしまった。
「うわっ」
 エレナも小さな声を上げながら、その場にしりもちをついてしまった。
 それだけでなく酒場内にいる逃げ遅れた客や、様子を窺っていた客、そして店員達も、酒場内にいる全員が、まるで羽をなくした蜂のように地べたに這いつくばり、もがいていた。
 まるで、全身が地面に吸いつけられるかのようだ。その場にいた誰もがそう感じた。
 重蔵は、立ち上がろうと足、腰、そして全身に力を入れるのだが、立ち上がろうとするほどに倒れそうになった。と、重蔵はちらりと近くにあるテーブルを見た。
「どうかの、ワシの重力魔法は?」
 冷や汗をかきながらも、グラフは勝利を確信したのか、高らかに笑った。
 そして、グラフは懐から一本の短剣を取り出すと、それを持って重蔵に近づいた。
 グラフが重蔵の間合いに入った刹那、重蔵とグラフが動いた。
 重蔵は鞘から刀を抜きながら、一閃、グラフの身体に横薙ぎを入れた。
 対してグラフは、その巨体に似合わず後方に飛び、大きな腹を大きく揺らしながら着地した。
「ほっ。危ないところであった」
 そういいながら、グラフはふと、自身の腹に違和を感じた。その異様なまでに膨らんでいる腹を見下ろすと、羽織っているローブが斬られ、そしてそこから見える腹の肉に、赤い線が一本、すうと走っていた。
 深くはないが、浅くもない、切り傷だ。つうと血が流れ出た。
「よかったな。そのでかい腹がなければ、今頃お前の身体は真二つだ」
 と、未だ立ち上がれないでいる重蔵が、グラフに言った。魔法を受けているはずだと言うのに、重蔵は不敵に笑っていた。その笑みに、グラフは戦慄した。そして、いつの間にか、グラフの顔から余裕の笑みが消えていた。
「……ほっ。『曲刀の剣士』よ。お主は確か、傭兵であったの」
「それがどうした」
「どうだ、その女よりもワシら、エルヴィアに雇われたほうがよいとは思わぬか?」
「……ほう。面白いことをいうじゃないか」
「お主のその腕なら、国王陛下も嬉々として向かいいれてくれようの」
 重蔵は、ふと自分の身体にかかっていた不可視の力が、次第に薄れていることに気がつき、何とか体勢を持ち直した。いや、重蔵だけではない。エレナもゆっくりとだが、起き上がれるようになってきていた。
 それを見たグラフは焦り、再び魔法をかけようと、左の手の平を差し出した。
「おい、重力使い」
 立ち上がった重蔵が、グラフを呼んだ。
 グラフはぴたりと動きを止め、重蔵を見た。冷や汗が、脂汗が、ぷっくりと膨らんだグラフの頬を滑り落ちる。
「お前の技、見切ったぞ」
「ほっ。面白いことを言うの」
 そんな馬鹿なと鼻で笑いつつも、一抹の不安がグラフの脳裏によぎった。
「次、お前が同じ技を使えば、お前は死ぬ」
 重蔵は、右手に刀を、左手は鞘に添えている。
 二人の距離は二丈(およそ六メートル)ほど離れている。
「ぬうん!」
 その声を合図に、重蔵が床を勢いよく蹴って仕掛けた。
 グラフは空を掴んだ。
 そして、手に持っている杖を思い切り振り上げた、まさにその刹那、グラフは重蔵が近くの椅子、次にテーブルと駆け上がり、そして跳躍したのを見た。
テーブルから跳び、二丈の距離を一気に縮めようというのである。
 さらに、重蔵は空中で刀を両手で持ち、上段の構えを取っている。
 グラフは杖を振り下ろした。
 勢いよく杖が地に突き立てられ、どっと大きな音が辺りに響いた。
 同時に、銀に煌く一筋の閃光が、走った。
 しまった、と考えたグラフであったが、その言葉が喉から外に出るより前に、重蔵の刀の先が、グラフの左肩から右の腰にかけて、深く、深く斬り裂いた。
 ぱくり、とグラフの分厚い肉が開くと、勢いよく大量の血を噴出した。
 グラフの返り血を浴びないようにしてか、重蔵は呆然と立ち尽くすグラフの横に回った。そして、グラフの膝裏を蹴り、彼をひざまずかせた。
「……ほっ?」
 たった今、我に返ったのか、状況を理解したのか、斬られたことに気づいたのか、グラフは目の前の血溜まりと、ばしゃばしゃと音を立てて流れ出す自分の血を見た。
 グラフの隣に立っている重蔵は、すっと音を立てず、再び刀を上段に構えた。
 その光景、まるで斬首刑を待つ囚人と処刑人のようである。
 聞くところによると、人の首を斬るときには、手ぬぐいなどの濡れた布をはたくような音がするのだという。
 しかし、重蔵がグラフの首を斬り落とすその瞬間を見ていたエレナは、その音を聞かなかった。意図して聞かなかったのではなく、聞こえなかったのだ。だというのに、グラフの首が落ちたときの重い音は、確かに聞こえたのだ。
 頭のなくなったグラフの体から、大量の血が吹き出ている。
 その横に立っている重蔵は、刀についた血を振り落とし、それから懐から取り出した紙できれいに刀身の血糊をふき取り、そして実に滑らかな動きで刀身を鞘に収めた。
「……『重力のグラフ』、敗れたり」
 そういうと、重蔵は血糊を拭き取るのに使った紙を捨てた。紙は、前のめりになっているグラフの体の上に、はらりと舞い降りた。
「どうして……」
 そう言ったのはエレナであった。
 グラフが死ぬ間際、最後にかけた重力の魔法がまだ効いているのか、エレナは立ち上がれないでいた。だと言うのに、重蔵は平然としており、エレナにはそれが理解できなかったのだ。
 エレナの弱々しい声を聞いた重蔵は、振り返って彼女のもとに歩み寄った。そして、ひょいとエレナを抱き上げると、近くの椅子に座らせた。
「始めから、やつは重力の魔法なんてものを使っていなかったのさ」
「どういうことだ?」
「やつが技を使うとき、エレナはどこを見ていた?」
「どこって、……左手」
「そうだ。やつはわざわざ大げさな声を出し、左手で空中を掴むような動作をして、魔法は左手で操っているように見せていた。だが、同時に杖で地面をついていたろ?」
 重蔵は近くのテーブルの上にある、倒れた容器を指差した。倒れているとはいえ、中にはまだ酒が残っている。
「やつが技を使ったとき、ジョッキの中の酒がやたらと揺れていたのを見た。そこで、魔法は左手ではなく、杖で地を振動させて起こしていたのかと思ったのだ。だから俺はやつが再び技を使おうとしたとき、テーブルから跳んだ。地に足をつけていない状態なら、やつの技も効かないかもしれないと睨んだんだ」
「それで、あなただけ魔法が効かなかったと言うのか」
「そうだ。まあ尤も、仮に本当に重力の魔法が使えていたとしても、あの間合いなら斬れていたがな」
「しかし、重力の魔法じゃなかったなら、一体なんだったのだろうか」
「人に耳の中には、体が今どの方向を向いているのかを測るための水が入っているらしい。おそらくやつは、地面を振動させてその水を揺らし、俺たちの方向感覚を奪ったのだろう」
 重蔵の言うことは、大まか当たっていた。グラフの魔法は空を掴む左手で発現するのではなく、右手に持っている杖によるものである。
 人間の耳の中には三半規管と呼ばれるものがあり、この器官が体のバランスを保っている。この三半規管の中にはリンパ液というものが入っていおり、体が傾けばこの液体も傾き、その情報が脳に送られるのだという。
 グラフは杖で地面を突き、そこから発生する振動で、相手の頭部、耳の中の三半規管を揺らしていた。振動により、リンパ液が不規則に揺れれば、脳に誤った情報が送られ、バランスを崩して倒れこんでしまうということだ。
 
 しばらくすると、店内にいた客達と店員達は立ち上がれるようになっていた。何人かは逃げるように立ち去り、何人かは大きな死体の周りに集まり、何人かは酒を飲みなおし始めた。
「悪い、店主殿。死体は明日の朝に葬儀屋にでも処理するように頼んでくれ」
 と、重蔵は小さな巾着袋を店主に手渡した。
 袋を開き、店主は中身を手の平の上に出した。
 大粒の金が、二個、いや三個出てきた。この酒場を丸々立て直しても釣りが来るようなものである。
 店主は特に文句を言うこともなく、黙って金を袋に戻し、誰にも見られていないことを確認すると、懐に収めた。
「ジュウゾウ殿、ここまで追っ手が来たからには、ハイリットに向かった者達にも六賢老たちが向かっているやもしれん」
「そうだな、俺たちも急いでハイリットに向かうか」
 そして、重蔵とエレナの二人は、鍛冶師の街を後にした。



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